2014年11月2日日曜日

「武器としての社会類型論」Ⅲ

申命記(דברים) http://www.cmy.on.ca/page/5/
この三連休、妻とどこかの美術館に行こうと言っていたのだが、天気が思わしくない。結局自宅でPCの前に座っているわけだ。前からエントリーしようと思っていた「武器としての社会類型論」加藤隆著/講談社現代新書2164(12年7月発行)の「掟社会」について、じっくり考えてみたい。

著者の加藤先生は、この「掟社会」のモデルをユダヤ教社会においておられる。キリスト教の神学を研究されている故に当然すぎるほど当然であるのだが、いくつか重要だと思われる箇所を挙げてみたい。

「掟社会」の「掟」はメンバーとなる者たちにとって本来的に存在するものではなく、「与えられる」ものである。したがって、この共同体のメンバーでない者でも、その「掟」が自分に与えられることを受け入れるならば、その者は共同体のメンバーになれる。掟の客観性。また、この掟はたいてい成文化されている。この掟はメンバーの生活スタイルを拘束する。人間の生活スタイルは一様ではないので、客観的な規範として、それをメンバー全員に強制すると社会は成り立たない。人間や社会を取り巻く環境も一定ではない。(…つまり時代によって変化する部分がある。)

この掟は、人間の側の価値判断が行えない領域に、掟の権威を位置させなくてはならない。儀式は重要な要素であって、個々人の一生に一度と言うような儀式、共同体で行われる一年から数年に一度といったいくらか大掛かりな儀式、日常生活で絶えず確認できる儀式的意味の活動(たとえば、食物規定、服装規定)などが組み合わされることが多い。

「掟社会」では、「人による人の支配はない。神の前での平等、掟の前での平等がメンバー全員に実現している。メンバーは、掟に従うことだけが余給されている。規模の小さな掟がよいと考えるのが自然である。

しかし、ユダヤ教においては複雑な律法が存在していて、重要なのは、掟を守ろうとする姿勢であると、加藤先生は言われる。キリスト教的な立場から言われているのかと思ったのだが、次のような文献学的な事実からである。

ユダヤ教の「律法」の「聖書」の部分が最終的に決定されたのは紀元後一世紀末である。その正典である申命記16章に、三大祭の時には全てのユダヤ人がエレサレムの神殿に行かねばならないとある。しかし神殿は、「ユダヤ戦争」の時(紀元後70年)に破壊されている。つまり、決定時には存在しない神殿に行かねばならないという規定がされたことになる。権威ある掟に、このような規定を入れたのは、掟全てを守る必要はない、掟の拘束は相対的なものだという立場を示しているというのである。したがって、メンバーは、掟を守ろうとする姿勢が重要で、逆説的に言うならかなりの自由を許容する掟である、ということが出来るわけだ。

富と価値も、その自由な範囲内で行われる。優秀なユダヤ人科学者は多い。ただ、それが認められるのは「掟社会」の中ではなく、西洋世界の枠内のものであるというわけだ。

この後、「救われる」という概念を巡って詳細な議論がなされていくのだが、ともかくも「掟社会」という社会類型については、ここまでとしたい。ユダヤ社会について、極めて面白い指摘であると私は思う。

イスラム社会と「掟社会」について、(専門外だということで)加藤先生はほとんど書かれていない。だが、素人の私から見れば、この「掟社会」、おきてが規模が小さい、儀式的意味から見ても、イスラムの社会類型と言った方がわかりやすく見えてしまうのだ。これが最も率直な感想である。いやあ、一神教社会の話は深い。

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