2012年6月16日土曜日

京大アフリカ研'12公開講座6月

梅雨どきの京大稲森財団記念館
柔道部のIH予選会場から、京都へ向かった。今日は毎月楽しみにしている京大の公開講座の日である。梅雨の季節であるし、柔道会場の熱気が残っていた関係で、ケニアの地ビールのロゴ入りTシャツのまま稲森財団記念館に着いた。「出会う」シリーズ第6回のテーマは 佐川徹先生の 『牧畜社会の戦争と平和に出会う』である。ダサネッチという、エチオピアの、ウガンダ、ケニアの国境地帯に生きる牧畜民の話である。

以前、本ブログでも書いた(11年6月15日参照)が、東アフリカの牧畜民には、レイディングという家畜の暴力的な奪い合いというライフスタイルがある。ダサネッチの人々は、トゥルカナの人々に対しレイディングを行っていることはまちがいない。そこで、いきなり話が前後するが、講義後の私の質問の内容から入りたい。それは、今回の「牧畜社会の戦争」がレイディングであることを確認することだった。佐川先生は、それに対し、レイディングだけでなく、現地語で「負債」と呼ばれる様々な怨恨も含まれると回答していただいた。最初に、このことを確認しておきたい。すなわち、ダサネッチの人々は、生業として暴力行為を行わざるを得ないだけでなく、他のエスニック・グループと日常的に他の理由でも暴力行為を行うという事実である。その暴力行為は、まさにカラシニコフ自動小銃を使用する戦争行為というにふさわしいものである。こう書いてしまうと、アフリカの負の一面が独り歩きしてしまう。重田元センター長も、その辺を憂慮されていたようで、これまた話が前後するが、最後の挨拶で、「彼らの暴力的な行為を日本では当然の”人権意識”だけで判断されることのないよう。」と言われていた。私も全く同感である。

さてさて、佐川先生の講義内容は、なかなかユニークなものだった。
彼らの暴力行為を伴うライフスタイルは、極めて矛盾に満ちている。家畜のための水や草といった自然資源の相克から生まれたであろう、敵を攻撃することを称賛する文化をもちながら、家畜キャンプで他のエスニック・グループと共生したり、相互の居住地を訪れて交易したり、結婚・養子などの親戚関係(ダサネッチの5割が該当する)、親密な友人関係(同じく7割)を持っているのである。なのに、なぜ彼らは暴力行為におよぶのか。

佐川先生は、『グオフ』という、男性が少年期から植え付けられる戦士としての身体の高揚・恒常的な興奮状態を説明された。彼らは自らの身体を管理できないと言うらしい。グオフにスイッチが入れば、一気に暴力的になってしまうのだという。しだがって、ダサネッチの男性ならば一度は戦争に参加しているわけだ。(年代別に詳細な聞きとりデータが示される。)一方、そういう戦争体験で、グオフにならない「臆病者」も出現する。だが、彼らの社会では『他人の胃は違う』と、各個人の意志決定を肯定するのだ。「臆病者」も認められるし、「他のエスニック・グループの親しい友人とは戦わない」ということも認められる。だが、彼らにとって最も重要な家畜が、トゥルカナの牛より脂肪(セブーのコブ)が小さいと、彼らの『グオフ』にスイッチが入るらしい。『我々を殺させるのは家畜じゃないか。家畜の脂肪が我々を怒らせ大地を熱くするんだ』とは、そういう意味らしい。管理不可能なものに殺し殺され、生かし生かされるという、家畜と共に生きる人々という点で、ダサネッチもトゥルカナも同じなのである。

…遊牧というのは、地球上で食を得るための最低レベルの生業であると私は思う。そういう場所で『生存のための暴力』は必要悪であるのだと歴史は教えている。アダムの息子、カインは人類最初の殺人を犯している。十戒でも「殺すなかれ」は6番目である。殺生戒がDNAに組み込まれた農耕単一民族から見れば極めて不可解であるが、これが彼らの文化なのだと納得するしかない。…しかし、これが今回の公開講座の私なりの結論ならば、あまりに面白くない。で、帰路、ずっと考えていた。あえて、重田先生の言われた”人権”の逆手を取って考えてみたら次のようになったのである。

そもそも肉体的暴力的能力の格差から人類が開放されたのは、欧米的な視点で言えば、ルソーの主張した「一般意志」の確立以来のことである。人間は平等であり、全員が生存権を持っているという大前提が、各人それぞれの意志である「特殊意志」を超克し国家を動かす力となったわけだ。
ルソーという視点で、ダサネッチの人々を見てみると、彼らの「特殊意志」である「臆病者」「友人を殺さない」などは、肯定されているわけだ。だが、彼らの社会の一般意志はあくまで「家畜とともに生きる。」というものである。そのためには自らの生存権すら否定したものになっているのではないか。

佐川先生は、北海道から「家畜とともに生きる人々」を研究したくて京大に来られたと言われていた。それが社会の一般意志となって自らの生存権すら否定していしまうほどの、まさに究極の「家畜とともに生きる人々」に出会われたわけだ。素晴らしい「出会い」ではないか。『戦争』の話ばかりで、『平和』まで手が回らなかったが、今日の公開講座、私はこのように受け取った次第。

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