2011年9月17日土曜日

京大アフリカ研公開講座 9月

朝、H城鍼灸院でも「凄い疲れかたですよ~。」と言われた。たしかに…。だが、今日は、前任校の文化祭であり、京大アフリカ研公開講座の最終回である。結局、前任校の文化祭をパスして、何が何でも公開講座だけは行くことにした。ところが、雨である。京阪電車の駅を出てビックリした。ゲリラ豪雨と言っていい。今日の公開講座の画像は、正門から見た”雨脚”がテーマである。とても遠景は撮れなかった。

本日の講師は掛谷誠先生(京大名誉教授)である。タイトルは、『アフリカと生きる』。実に深いテーマである。掛谷先生は、これまでの長年の研究を振り返りながら、『地域の潜在力とアフリカ的発展・アフリカ型農村開発』というテーマでお話しいただいた。いやあ、面白かったのである。今回の掛谷先生のお話は、これまでとは少し違う。『開発』という視点が明確に示されていた。そもそも開発経済学からアフリカを学びだし、この(京大の地域研究)公開講座にたどり着いた私としては、”おおおっ”という感じだった。

まず掛谷先生は、70年代に調査したタンザニア西部タンガニーカ湖畔のトングウェ、その対比として80年代に調査したザンビア北部のベンバについて語られた。両者はともにミオンボ林に住む焼き畑集落という共通点がある。先生は、『平準化機構』という法則性を見出される。持つ者と持たざる者の格差を抑制するシステムが、アフリカには厳然としてある。たとえば、トングウェでは、穀物の生産量は消費量とほぼ同じであるが、親切な民族なので、客人が来ると大いに振る舞う。その比率は調査によると生産量の40%にも及んだという。ではどうするのか?彼らもまた他に客人として食べに行くのだそうだ。(笑)またベンバは母系社会で離婚した母が世帯主であることも多い。これらの母の多くはシコクビエで酒をつくる。この酒を、男たちが買うことで現金収入を得、自分の焼畑の木の伐採代となるそうだ。このような例から、平準化機構の存在が導かされるのだが、その奥低に、格差からくる妬みや恨みを起因とした「呪い」があることに気付いた掛谷先生は、なんと『呪医』になられたという。呪医になる儀式の話も伺ったが…これは凄い。後で、その理由を若気の至りと言われていた。70年代。全共闘の時代だ。掛谷先生は、その闘争の敗北感を背負い、アフリカで研究生活に入られたのだった。そこで見たアフリカは、先生に”もうひとつの自由”があることを教えてくれた存在となった。その延長線上に『呪医』になったという事実があるらしい。私は、そんな先生の生き方、世代が違うが羨ましく感じた次第。

だからこそ、掛谷先生の目は農村の研究を通じて”アフリカ的な開発”に向かうことになる。70年代から80年代、90年代と、アフリカの農村は大きく変化する。タンザニアのウジャマー社会主義時代、構造調整時代、莫大な負債を抱え経済格差と政策の大きなブレが続く。アフリカにとって、なにが開発であり、なにが豊かさなのか。世銀やIMFのいう所得の向上や経済成長率という数値ではあらわせない”アフリカ的”な開発があるのではないか。掛谷先生の自問自答が続く。
ンゴロ畑
その後、掛谷先生はJICAの専門家として、タンザニア南部マラウイ湖に近いマテンゴ高原に向かわれることなる。1.5m×2mほどの「ンゴロ」という掘り穴を谷の斜面に規則的に掘り、インゲン豆やトウモロコシを耕作する”アフリカ的な”集約農業に感激されるのである。この「ンゴロ」という穴を掘ることで、雨量の多い高原の急斜面の土壌侵食を防ぎ、枯れ草をその穴に敷く(肥料となる)のでエコな有機農法という側面もある。彼らの工夫から生まれた極めて”アフリカ”的な農法である。これをさらにうまく活用する方法はないか、開発現場で粉ひき場の設置などにも関わっていかれるのである。(ちなみに、掘った穴が、ンゴロと聞いて、大カルデラのンゴロンゴロ保護区と関係があるのか、お聞きしたら全く関係ないとのことだった。笑)
また、これまでの研究の地3点のちょうど中間あたりにあるワンダでは、80年代に移住してきた半農半牧の民スクマが、アカシア疎林でせいぜい牧畜にしか使えないと地元のワンダ人が考えていた土地を、牛耕を利用しながら水田に変えてしまう現場を目撃された。実はこの土地、不透水層で、雨季の水をうまく使えば水田耕作が可能だったのだ。それを見抜いたスクマ人もすごいが、良いことは急速に広がるという平準化の社会的機能がここで発揮された。地元のワンダ人にも水田耕作が拡大していくのである。”アフリカ的”内的発展が十分行われるという例だ。

スクマの結婚式 伊谷先生の画像
掛谷先生は、このお話の中で何度も”アフリカ的”というコトバを使われた。アフリカ的とは、欧米のグローバルスタンダードではないという意味を含んでいるのである。カウンター・ディベロップメント。もう一つの開発の道筋があるのではないか。先生は、そう考えておられる。もちろん、アフリカがこのままでいいというわけではない。だが、平準化というシステムは”アフリカ的”で悪くはない。携帯電話の普及や中国の投資や土地制度の所有形態の変化などが押し寄せている。今のアフリカは、これらの中で、何を選択し自分たちの開発に活かすかが重要である。

ところで、日本は、欧米をオリジナル化しながら受け入れてきた。日本的な欧米文化、日本的な生産システム…。アフリカもまた、アフリカ的な、オリジナルな受け入れ方をするべきではないか。欧米的な開発、欧米的な豊かさ、欧米的システム、それがけっして普遍でないことを今回の震災が証明したような気がすると、講演後例の美味なエチオピア・コーヒーをすすりながら先生は私におっしゃった。

日本人は、そういう何を選択し、活かしていくかという発想は得意だ。「アフリカと生きる」、ということは同世代のアフリカの人々とどう共生していくかだ。欧米的な数値で測る豊かさ以外の”もう一つの道”をアフリカの人々と共に探してみるのもいいじゃないか。…それが、先生の今日の結論と見た。

講演後に重田センター長から、公開講座5回皆勤ということで、オリジナル・トートバッグを頂いた。こんな面白い話を聞かせていただいた上に…。
ありがたく使わせていただきます。ありがとうございました。

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