2011年2月25日金曜日

ザンビアの農村の話

先日の京大のアフリカ研の公開講座の時、島田先生の『現代アフリカ農村-変化を読む地域研究の試み-』という本を購入して、今日読み終えた。前回の講座で、島田先生が話された内容を完全に補てんする内容で、なかなか面白かった。書評というよりも、印象に残った事を書き残しておきたい。

まず面白いと思ったのが、ザンビアの植民地以来の発展のカタチである。ザンビアといえば「銅」だが、この銅鉱山、現コンゴ民主共和国からみれば尻尾、ザンビアからみれば、国の中央部の窪みのようなところにある。宗主国イギリスは、ビクトリアの滝からリビングストン、首都のルサカ、カプウェ、ンドラを結ぶ鉄道を建設した。この鉄道沿いこそが、白人入植地(王領地と信託地)であった。現在もインド系のザンビア人や南ア系白人の大農園が多いそうである。イギリス政府は、入植者がもっと入ってくると思ったらしいが、案外集まらず、鉱山の労働者への食料供給地として、原住民であったレンジェ人(正確には、レンジェ人の首長)に託されたらしい。島田先生が長年調査されたC村は、ルサカの北、カプウェの南45kmの国道沿いにあるという。ちなみにザンビアのJOCV、桐生さんの赴任地だるマザブカは、同じ国道沿いで、ルサカの南に位置するわけだ。
ところで、ザンビアは昔北ローデシアと呼ばれ、現ジンバブエの南ローデシア、現マラウイのニヤサランドと共にイギリスの植民地だった。「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」にも書いたのだが、アフリカの人々は、意外にもよく移動する。一族や世帯、あるいは個人の場合もある。このC村にも、ジンバブエからショナ人やンデベレ人が土地を求めて移住してきていたりする。当時のC村の村長が認めて、土地を配分したのである。このあたりの牛耕は、ショナやンデベレの人々が白人農園のスキルを学び、ここへ移入したのだと言われている。多民族共生の地なのである。

このショナ人やンデベレ人を向かえ入れたC村の村長は、実は2代目で、なかなか人望のあった人らしい。だが、彼は急死するのである。畑仕事をしていて、急に下腹部に鈍痛を覚え、さらにみぞおちに激痛が走り、しゃっくりが止まらなくなった。近くの病院に行き、レントゲンも撮ったが異常はなかった。結局意識がなくなり6日後に亡くなった。亡くなった時に口や鼻、耳から大量の血が流れ出し、それを拭き清めていた時に皮膚がペロリと剥がれたという。この亡くなり方は尋常ではない。村人は、誰かに呪術をかけられたのだと噂した。また、彼の死は、村の地力が喪失したことを伝えるものだという流言も出て、実際それを信じて村を離れた一家もいるのである。

この話、さっそく今V4.01として書き直している「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」のアフリカを理解するキーワードの「現代化する呪術」の項に入れさせてもらった。たしかにアフリカの人々は、呪術を恐れている。「アフリカに学ぶ」にも呪術のコラムがあって、コンゴ民主共和国のキンシャサのストリート・チルドレン達の多くは、災いをもたらし人の魂を食う存在として、家族に忌避されたらしい。凄い話だが、日本だってお百度を踏んだり、祈祷をしたり、お祓いを受けたりしているわけで、五十歩百歩なのである。フランスやスペインでもカトリックの巡礼や、聖なるマリアの泉に多くの病人が集っている。アフリカの人々だけを悪く言うのはフェアではないと私は思う。

島田先生の地域研究は、こういった出来事(たとえば村長の死)が、村を出るという変化に繋がっているという、既存の社会科学的にうまく処理できないことも含んでいく。なるほどと思った次第である。(つづく)

追記:今日、ANAの成田空港で働いているOGと、阪大スワヒリ語学科のOGが訪ねてきてくれた。彼女たちの話を聞いていて、なかなか面白かった。ANAに勤めていると、成田ー大阪が片道1800円らしい。(年8回だけらしいが…。)また阪大のスワヒリ語の卒業生は、京大のアフリカ研か、荒熊氏のいる名古屋大の院へ向かって行くらしい。タンザニア土産のカンガ(私たちはMジャクソンを忘れないとスワヒリ語で書かれているそうだ。)を貰った。これで、カンガが2枚になり、アフリカンドレスらしいデモストレーションが授業で出来る。ありがとう。 

0 件のコメント:

コメントを投稿