2011年2月21日月曜日

G0(ゼロ)と「公」と「私」と

 ウガンダの大統領選挙は、どうやら現職のムセベニが勝ったようだ。さて、その後どうなるか。ウガンダもインターネットに制限をかけたらしいが…。ところで、今リビアは大混乱である。あの影武者が何人もいたという不死鳥のようなカダフィ大佐が政権を手放すのだろうか。ベンガジでは、実弾で威圧しているらしいが、トリポリでもデモが行われていると言う。一方、北京でも王府井で反政府集会が開かれそうになったらしい。凄い速さで、世界が動いている。

 昨日、NHKで『ネットが革命を起こした~中東若者たちの攻防』を見た。フェイスブックが大きな役割を果たしていたことが良く判った。インターネットを封じ込める政府へ謎のハッカー集団が攻撃していたこともわかった。興味深く見たのだが、チュニジアでも、エジプトでも、「その後」が混乱していること、その中核を担った若者たち自らが、その混乱に逡巡していたのが印象的であった。「誰もが、好きなことを要求している。…これではまとまらない。」

 G0(ゼロ)…アメリカの没落の影響は、こんなにも大きいのだろうか。多くの途上国で、大混乱が起り、リビアなどは内戦になる可能性もある。えらいことである。グローバリゼーションは、全ての国を巻き込んでいく。

 ところで、先日から、なんとなく妻と「台湾」が話題になって、司馬遼の『街道をいく40台湾紀行』を読んでいる。その中で当時の李登輝総統の話が出てくる。その中で、「公」と「私」の話が語られる。
 「伝統的漢民族は、皇帝も私、官僚も私、これらと潜在的敵対関係にある人民も私であった。資本主義は私から出発している。資本主義の力は巨大で、しかも利潤追求という闘いを目的としている。そのためにゲームと同様、ルールが出来、あわせて公の思想が成立した。このことはプロテスタンティズムの勃興と不離のようである。」続いて、司馬遼は福沢諭吉の『瘦我慢の説』をひいて、福沢は、日本人に「私」であれ、「私」の総和が「国家」をつくるのだと激励しているが、もし福沢が中国人なら「公」への心情を励ましたに違いない、と李登輝に言うのである。

 ムバラクやカダフィ、あるいは多くのアフリカ指導者は「私」であるがゆえに、官僚も「私」であった。同じ「私」である人民が、その潜在的対立関係を、インターネットを駆使して顕在化した時、対立関係に陥るのは必至である。今、なにより必要とされるのは「公」なのだが、果たしてそれを短時間で、しかも平和的に獲得することが出来るか、が大きく問われているような気がする。

2 件のコメント:

  1. >Katabira no tsujiさん
    本当にここのところすごい勢いで話が進んでますね。
    アホなメディアがまたアホぶりをやらかしているのが、手段(=TwitterやFace Book)は明らかなのに、主張がまったく明らかではない、ということ。確かに、独裁政権が崩れて行く構図にはなっていますが、そのことが「民主化」を意味するのだろうか…僕には、カダフィなど「王様」にしか見えないので、実質、立憲君主制みたいなものなんではないか…とか考えていましたが。
    フセインがつかまったとき、僕は一種「イケニエ」みたいに思いました。あのときは、悪徳プロデューサー兼、正義の味方、アメリカの自作自演でしたが、今回はプロデューサーも正義の味方も見えません。おっしゃる通り、アメリカ、というスーパーパワーはすでに凋落してしまった、ように見えます。じゃあ、誰がシナリオを書き、演じているのか?「民衆」??「民衆」って誰でしょうね?

    返信削除
  2.  様々な報道が過熱しています。中東各国で、事情は異なるようですが、基本的には、貧困や経済格差が大きく背景にあるようです。親欧米的で、ある程度欧米的なるものが消化されていたチュニジアやエジプトでは、その主導的な動きを、大学卒で潜在能力を生かせない若者がおこしたようですが、彼らもその後を念頭にはおいていない。崩壊のシナリオは書けたと思いますが、建設のシナリオはないのではないのでしょうか。毛沢東はいても周恩来がいないという感覚ですね。イエメンやサウジなどは、そういう情報があまりない。リビアもなんか熱だけで動いているような感じですね。まあ、革命と言うのはそういうものだと思いますが、まさしく荒熊さんが指摘されるように、マスコミのアホぶりが見え隠れします。

    返信削除