2010年8月14日土曜日

典子は今、対他存在


 今日の倫理の補習は、昨日最後に書いたように現代哲学である。この30年間、目をつぶって授業ができるくらい、何度も何度も教えてきた。生の哲学や実存主義は特に教えていて面白い。中でも私はサルトルが好きである。
 倫理の授業で、浜村淳化して映画を使って教えるのは、キリスト教の本質を教えるエレファントマン(5月20日付ブログ参照)と、このサルトルだけである。サルトルの即自存在、対自存在、対他存在を教えるのに有効というより、監督の松山善三が、サルトルをこういう形で描こうとしたのだ、と思える映画が、『典子は今』である。

 古い映画である。サリドマイドで、生まれつき両腕が短く、後に失踪する父に切断を承諾され、その後母と共に障害を乗り越えてきた典子さんの話である。最初に彼女が何でも器用に両足でするのに驚かされる。スイカを切ったり、ミシンを使ったり…。サルトルは、あるがままの姿を”即自存在”と説く。もし、自分が両腕がなかったらどうか。生徒に質問する。誰もが彼女のように障害を乗り越えると声に出せない。そう、私は両腕がない、だから何もできない。と彼女は即自存在として人生を放棄することも可能だったのだ。
 しかし、彼女は母親のきびしくも温かい愛情にささえられ、”自己投企”したのである。だから障害を越えて様々なことを両足でできるようになったのである。これが、”対自存在”である。彼女は高校を卒業し、熊本県庁に入る。映画は、満開の桜の下で胴上げされるシーンがある。私は最初見た時、これで終わり、めでたしめでたしかと思った。だが、映画はここからが本番なのである。
 熊本県庁にも入り、障害者としての自分を忘れるくらい頑張っていた典子さんは、通勤のバスが急停車し、吊皮を持てないが故に転倒する。この事件で、自分が障害者であることを再発見した彼女は、同じサリドマイドの障害をもつ、広島のペンフレンドに1人で会いに行こうと決意する。1人で行くことは容易ではない。だが、それをやり遂げるのである。ところが、その友は失恋を苦に自殺した直後だったのである。憔悴した母と兄に対面した典子さんは、自分の存在自体が彼らを励まし、再起させることを知る。ここで、典子さんは最高の両足によるパフォーマンスを見せてくれる。マンドリンを弾くのである。マンドリンは難しい。弦が8本ある上に、常にピックを強く握りビブラートさせねばならない。本当にすばらしい。私は感動した。兄のギターとセッションする。これは泣ける。母親が木魚でパーカッションするのが笑える。泣いて笑って、そして泣ける。(この曲は典子は今のメインテーマである。)

   心に夢をだいて たどった旅路に
    あなたと出会った 浜辺のひろさよ
   誰かが訪ねていた 明日の世界は
    ひとりひとりがもつ あこがれのはじまり
   友達 愛のかたち しあわせ ひとりひとり
    たがいに手をさしのべ 明日を語り合おう 
http://www.asahi-net.or.jp/~kx8y-hgmt/midi/norikoha.htm

 最後に、兄が、典子を誘う。「典子、泳ぐぞっ」まるで死んだ妹に命令するように。両腕のない典子さんが着衣のまま、瀬戸内海を兄と共に泳ぐ姿をヘリが追う。次第に高度を上げていく。感動のラストシーンである。対自存在から、さらに典子さんが”対他存在”へと自己投企した姿である。

 生徒に”浜村淳”しながら、こう問いかける。「この『典子は今』というタイトル、変じゃないか?まだな何か言葉が続くような気がしないか?」 …そう、『典子は今、対他存在』

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