2024年1月29日月曜日

渡辺崋山の悲哀

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「近代国家を構想した思想家たち」(鹿野政直著/岩波ジュニア新書)の最初に、渡辺崋山が挙げられている。三河の田原藩の末席とはいえ家老の出自である。幕末維新に活躍した人物群は圧倒的に下級武士が多い。上士としてすっと浮かぶのは、土佐藩の板垣退助、後藤象二郎、長州の高杉晋作、長岡藩の河井継之助、薩摩藩の小松帯刀といったところ。土佐は、山内氏と長宗我部氏の家臣の軋轢が強く、尊王の志士は圧倒的に長宗我部の家臣だった下士が多い。山内容堂は倒幕寸前まで徳川についていたが、機を見るに敏で板垣らが動く。長州は”そうせい候”の元、自由奔放に志士が動く。家老は何度も責任だけ取らされる。薩摩は、事実上の藩主・島津久光への反発が大きく、斉彬子飼いの西郷や大久保が活躍し、倒幕後最終的には久光を裏切る。藩ごとに事情は違うが、基本的に上士は藩主に対して責任を取ることが多い。

さて、渡辺崋山は聡明な人であり、藩政改革に取り組み、海防掛になった頃から蘭学を学ぶ必要性を感じ、蘭語を学ぶ時間がなかった彼は高野長英らの翻訳書をもとに、外国事情を研究・考察するのだが、これが極めて的を得ている。ここまでわかってしまえば、当時の幕政批判にならざるを得ない。蛮社の獄で繋がれ、後、罪人として故郷で蟄居させられるが、藩主に類が及ぶことを恐れ「不忠不孝渡辺登」(画像参照)という遺書を残し、自害するのである。家老らしい責任の取り方ではあるが、先駆者の苦悩というには、あまりに有能な人故、悲しすぎる結末であると私などは思う。

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