2024年1月23日火曜日

銀と世界の一体化

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「先生も知らない世界史」のエントリー第9回目は銀の話。銀の流通の世界的権威ウィリアム・アトウェルによれば、日本を除けば、世界一の銀生産地域はボリビアのポトシ(画像参照)で、1571~75年の年平均生産量は40148kgだったのが、1591年~95年では218506kgと大幅に増加している。ところで16世紀後半から17世紀前半の中国では銀はほとんど生産されていない。しかし17世紀初頭には、年間57500~86250kgが後述のマニラから流入したとされている。

ボリビアなど(メキシコも銀の生産で有名)の新世界から東アジアに運ばれる銀のルートは3つ。第1は、メキシコ西岸のアカプルコから太平洋を横断して、フィリピンのマニラへ送られるルート。この銀は中国の絹や陶磁器、リネンなどと交換された。第2はメキシコからパナマ地峡経由でスペインのセビーリャへ。ポルトガル経由で喜望峰をあわりインドのゴアへ。ポルトガル人の手でゴアからマカオへ、このルートで16世紀後半から17世紀初頭にかけ6000~30000kgが運ばれた。第3は、セビーリャから、ロンドンやアムステルダムへ運ばれ、英蘭の東インド会社によって東南アジアで、中国の絹や陶磁器と交換するというもの。これらは、主にスペイン船による輸送で、明の鄭和以降中国は海運事業は行っていない故に日本からの銀の輸送もポルトガルやオランダ船によるものであった。当時のマニラは、絹と銀の交換が行われる異文化間交易の中心であった。これでスペインはかなり儲けたわけだ。

やがて銀が中国に大量に流入することになる。16世紀末から17世紀初頭の中国とスペインの金銀比価は、広東で、中国が金1:銀5.5~7であったのに対し、スペインは1:12~14であった。すなわち中国の金の価値のほうが高かった。よって欧米は銀を使用することで安く絹を買えたわけだ。近世においては輸送費が現在より遥かに高くついたので、もし中国が輸送を担っていればもっと莫大な利益を得たに違いない。この輸送をヨーロッパ人に委ねたことも、アジアとヨーロッパの豊かさの逆転、「分岐点」になったと玉木俊明氏は見ている。たしかに銀は世界を一体化したのだが、17世紀の時点では中国はヨーロッパの世界経済に組み込まれたというのは早計で、イギリスの産業革命で綿製品が世界製品となった18世紀後半まで待たねばならないし、従属化はアヘン戦争以後のことになる。

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