2022年5月14日土曜日

星新一による新渡戸稲造(後)

「内観外望」という本(新渡戸の講演集)の「新自由主義」という章で、欧米の主要なる思想、学説、社会変化を説明した内容がある。これが面白い。

…フランスのルソーの説になってくると、対他関係がおろそかになり、人間を豆とすれば、入れてある籠が社会であり国家だ。豆はその中でバラバラと動き回り、それをもって自由としている。しかし、カントと、なると、同じ豆でも重箱の中の納豆みたいなもの。ひっくりかえしてもバラバラにならない。そのためドイツではフランス革命のようなことは起こらなかった。その度の進んだのがヘーゲルである。豆をすりつぶして味噌にしてしまった。そして、これを国家と称した。すなわち国家あって個人なしという説で…。

倫理の教師としては、こういう説明をされると妙に納得する。カントの納豆は、定言命法による道徳法則によって制御された「人格」による「目的の王国」であり、ヘーてゲルの味噌は、法の哲学に解かれる「人倫」で、家族と市民社会が止揚された国家を表現したものである。上手い例だと思う。

明治44年カーネギー平和財団の日米交換教授として在職のまま渡米。各地で160回もの講演を行った。排日的な移民法の制定を吹き飛ばしたと言われる。明治天皇崩御をうけ帰国、神経衰弱の再発もあって大正2年一高校長を辞す。それから5年ほどは東大の法学部教授として少し講義を受け持った程度で静養する。大正5年養子の孝夫がハーバードを卒業し帰国、徴兵検査を受け1年の兵役後、星製薬の社員となっている。その後ジャパンタイムスに移っている。大正7年、東京女子大学の学長に就任、翌年後藤新平とWWⅠ後の世界を見に行っている。どうやらウィルソンと会談しているようだ。ところで、国際連盟設立の準備がロンドンで進められており、西園寺公望と牧野伸顕の両全権は、主要国から出すことになった数名の事務局次長の人選に悩んでいたところ、そこにひょっこりと新渡戸が顔を出して決まった。新渡戸にとっては、牧野に説得されるのは一校校長以来二度目となる。英国出身のドラモンド事務総長は、連盟の精神啓蒙の講演のほとんどを新渡戸に依頼する。寛容なクウェーカーで夫人はアメリカ人、むらみに日本の国威を発揮せず、慈愛の人として尊敬されていたのだった。アインシュタイン、キュリー夫人、ベルグソン、ロイド・ジョージ、ポアンカレー、ロマン・ロラン、H・G・ウェルズ、ナンゼンなどとの交遊した。アインシュタインの来日も新渡戸の影響である。大正13年、アメリカが移民法を可決、激怒した新渡戸は、一時帰国の歳、スエズ航路で帰国し武士道を貫いた。日本人排斥をして新渡戸は歓迎という理屈はないと、多くの招聘を断ったのだった。大正15年次長を辞任。在任中に、学士院会員、貴族院議員に勅任される。

その後太平洋会議を通じて平和に尽力するが、カナダで腹痛を訴え、BCのビクトリアで緊急入院。逝去した。満州事変が起こり日本が国際連盟を脱退した昭和8年のことである。

どうやら、新渡戸を最後の切り札として駐米大使にという案があったようだと星新一は書いている。外相広田弘毅と星一は郷土少年期からの旧友で、新渡戸と星は連絡を取っていたらしい。もし実現していれば日米関係は一時的に改善しただろうが、もっと悲劇的な立場に陥ったのではないか、いい死に時だったのか、と星新一は書いている。

最後に、一周忌の頃、星新一は父とともに、メリー改め万里子と名乗っていた奥さん(軽井沢在住)に挨拶に行き、共に墓参している。(星新一は幼かったので記憶に無いらしい。)その万里子さんも昭和13年死去。日本の土となった。

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