2022年5月14日土曜日

星新一による新渡戸稲造(前)

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星新一の「明治人物史」を借りた理由の一つに、新渡戸稲造について書かれていることがあった。PBTで日本に留学する学生に、調べて欲しい日本の偉人として、私が推薦したのが新渡戸稲造と緒方貞子(そしてイチロー)であった。新渡戸は、「武士道」を書き、日露戦争を終結に導いたセオドア・ルーズベルトを親日派に導いた人だし、国際連盟の事務次長を務め、日米戦争を止めるべく個人として働きかけた人物である。

さて、星新一の描いた新渡戸について今日はエントリーしたい。南部藩士の末っ子として生まれた新渡戸はかなりの暴れん坊だったようである。叔父(大田姓)の養子となり、東京で東京英語学校(後の東大の予備門)に学ぶ。1年上に佐藤昌介という先輩がおり、養父の要請で寄宿舎を出てともに下宿生活をする。暴れん坊故に問題を起こしたのかもしれない。ちょうと、明治9年、明治天皇が郷里を巡察、祖父と父が開拓した地に立ち寄り「これからも農業に尽くすように」というお言葉と金一封を賜った。この頃から、身を慎み修養に励むようになった。佐藤先輩が、札幌農学校1期生となり、2期生として続く。さて、1期生は、全員クラーク博士の元、「イエスを信じる者の契約」に署名しており、2期生も署名することになる。同期の内村鑑三は「余は如何にして基督教徒となりしか」の中で「彼らは署名するように余に強制し、余は屈服した…」と書いているとはいえ、比較的抵抗なしに受け入れたようだ。しかし新渡戸は理性で信仰を理解・解決しようとした。修業僧とあだ名されるほどかなり深刻に読書に励んだ。同様に信仰不信を克服した英国のカーライルの「サーター・リザータス」によってようやく納得できたという。

札幌農学校卒業後、役人となりイナゴの大発生に対策したり、農学校の予科の教員になったりしたが、向学の意思が強く東大に進学する。将来農政学をやるために、経済、統計、政治学などを学ぶ。(当時の日本には講座がなかった。)最優秀の成績を収めたが養父に米国留学を打診、認められて明治17年22歳で渡米。PAのミッドウィル大学に入ったが、佐藤先輩が通っていたMDのジョン・ホプキンス大学に移る。佐藤は院を出て帰国し、新渡戸の留学費の不足を後の中央大学創立者・初代学長の新渡戸家の親戚である菊池武夫に頼んでくれた。決して多い額ではなかったがなんとか留学生活を続けることができた。

ここで、新渡戸は、クウェーカー(フレンド派)教徒になる。同教徒のフィラデルフィアのモリス家で、後の妻・メリーと知り合った。佐藤先輩は帰国し、札幌農学校の教授になっており、新渡戸を助教授年3年間の官費によるドイツ留学を北海道長官に進言、認められた。ボン大学で農政、農業史、農業経済学を学ぶ。学問上尊敬するベルギーのラブレー教授と懇意になり、後に「武士道」を表すきっかけを掴む。ベルリン大学、ハレ大学でさらに学び、メリーと婚約。日本では兄が死に実家を相続する必要に迫られ、大田姓から新渡戸姓に戻る。(養父はいさぎよい人であると星新一は書いている。同感である。)ハレ大学で博士号を得て、農業振興視察を兼ね、カナダ、アメリカ経由で帰国する。フィラデルフィアで、メリーと結婚式をあげた。

帰国後、札幌農学校教授となり、大活躍する。(札幌にはなかった)中等教育のための私学の校長、夜間の学校、女子教育機関などにも関わり、北海道開拓やスケートの普及、もちろん学者として本分を尽くし佐藤先輩とともに日本初の農学博士の学位を受けた。6年間走り続け神経衰弱に陥ったので、(実子は早逝したので)甥を養子とし、一家でアメリカ・CA南部に移住した。ここで「武士道」を執筆する。ちなみにこの本は、養父・大田時敏に捧げられている。フィラデルフィアの出版社との交渉で東部に来たときに、NYコロンビア大学にあった星一と邂逅している。星が発行していた「日米週報」の取材である。たちまち尊敬の念にとらわれ、星一の大学卒業時の写真は新渡戸そっくりの格好(髭や縁無しのメガネ)だったそうだ。(画像参照:大学卒業時ではないが似ている。笑)ちなみにフィラデルフィアの前述のモリス家は日本人留学生の月一回の集会が開かれ、星一も野口英世も内村鑑三も出入りするようになり、隠れた日本近代化の隠れた恩人ではないかと書かれている。

新渡戸は、帰国し札幌農学校の教職に戻る予定だったが、農商務大臣より台湾の児玉源太郎・後藤新平のもとで台湾殖産局長就任が寄せられ、1年の猶予をもらい熱帯農業の成果を調べ帰国した。砂糖を大産業に仕上げる計画を立て児玉に提出し、ハワイから改良品種を輸入現地農民の意識を変え軌道に載せた。一時帰国した星一も後藤新平の知遇を受け台湾に同行、新渡戸と後藤のアメリカの製糖事業視察にも同行している。新渡戸は、その後京大教授となり法学博士も受ける。明治39年、文部大臣牧野伸顕の熱心な説得で第一高等学校校長に就任する。まだ「武士道」の翻訳・出版は2年後のこと。学者として農学が専門だろうが実に幅が広い。この辺一高の学生には最初新渡戸の偉大さが理解しがたかったのかもしれない。

講演集から星新一が引用している面白い記述があった。…長くなった。この話以後は次回に。

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