2015年11月21日土曜日

チェルノブイリの祈りを読む。

チェルノブイリの祈り(スベトラーナ・アレクシェービッチ著/岩波現代文庫/2011年6月16日発行)をまだ読んでいる。あまりの救いのなさに、読むスピードはどうしても遅くなる。

今日エントリーしておきたいことは、政治がなにより優先されることの恐ろしさである。世界史Bで、重要な基軸として使わせてもらっている千葉大学の加藤先生の社会類型(2014年10月7日・13日、11月2日などのブログ参照)は、ソ連では、かなり顕著である。ソ連下のベラルーシの農村は、極めて中世的な「不自由な共同体」であったことがよくわかるのである。彼らは、原子力発電のしくみも、放射能の恐ろしさも、その防ぎ方も全く無知である。国の誇りである原発の近くに住んでいるという認識しかない。国が安全であると言った故に安全であると信じ込んでいた。

私にとって衝撃的な事実だったのは、爆発した原子炉の上に、ソ連国旗を立てるという、とんでもないことをやっていたことだ。3~4日で国旗はボロボロになり、また立て直すのだという。これにかかわるのは英雄的行為…。事故直後、メーデーの行進も予定どうり行われた。地元の党第一書記は、上部の指示に逆らうことなど考えられない。まさに、(フランクフルト学派の言う)道具としての理性。この行進の実施によって、どれだけの人命が失われたか。

ところで、今日の毎日新聞の社説に、韓国の慰安婦問題を扱った「帝国の慰安婦」の著者朴教授が、在宅起訴されたことについて書かれていた。元慰安婦から名誉毀損として告訴されソウル東部地検は、すでに慰安婦は性奴隷だったと証明されていると規定し、「学問の自由を逸脱した。」と結論づけた。もちろん、韓国の憲法は学問の自由を認めている。韓国における、この問題は極めて感情的かつ政治的であると。
…私も、「学問の自由」について、完全に主客逆転しているように思える。地検という法律家の結論とは信じがたい。

…国家をリヴァイアサンという(旧約聖書ヨブ記に出てくる)怪物に例えたのは、ホッブズである。国家(社会類型で言えば、支配階級である「自由な個人」、当時のソ連で言えばノーメンクラツーラ)の『政治』が優先されることこそ、リヴァイアサンのリヴァイアサンたる所以のように思えるのだ。

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