2014年7月2日水曜日

立花隆 天皇と東大Ⅳを読む。

田中耕太郎
http://shuyu.fku.ed.jp/html/
syoukai/rekishi/tanaka_kotaro.html
立花隆の「天皇と東大」の最終巻(文春文庫・13年2月10日第1刷)を今日読み終えた。この第四巻の主役は、経済学部の内紛である。私が学生だった頃(昭和50年代)は、経済学と言うとフツーは、マル経を意味していた。(ただ私は文学部なので、社会科の教員免許のために経済学を履修したにすぎない。意外なことに、その先生は近経だった。マル経とは、唯物史観や剰余価値説などを中心としたマルクス主義経済学、近経とは、有効需要などのケインズの近代経済学を意味する。)

昭和十年頃の東大経済学部は、およそ労農派、革新派、それに反ファシズムの社会民主主義的な派の三派に別れ、三国志よろしく教授会を中心に凄い権力争いをしていたのだ。すでにマルクス主義の共産党シンパは検挙され崩壊していた。そこに、コミンテルンが人民戦線路線を打ち出す。つまり、反ファシズムで同じマルクス主義を標榜しながらも非コミンテルンの勢力(日本では労農派=後の社会党左派となる)や社会民主主義者(穏健な議会制民主主義による社会主義化を目指す=後の社会党右派・民社党などの流れ)とも連携すると言い出したのだ。このことが、軍部・政府・文部省によって経済学部の労農派排斥へと繋がり、時期を追って社会民主派排斥へと流れていく。軍部・政府に近い革新派(国策にしたがったファシズム派)も、この内紛に巻き込まれていく。

ここで、法学部長だった田中耕太郎が、軍艦の神様と言われた(工学部長だった)平賀譲総長とともに粛学(経済学部の内紛を治めるため各派の中心教授を、強引に革新派も含めて休職に追い込む)を進めるのだ。大学の自治という観点からはゆるされないような方法だが、田中耕太郎は信念に基づいて進めていく。

この田中耕太郎は、大人物である。結局、その後東大を辞め、文部省に入るのだが、戦後の活躍がさらに凄い。学校教育局長として、文部大臣として辣腕を振るう。

この田中耕太郎の信念とは、「教育を文部官僚の手から、教育者の手に取り戻すということ。教育権の独立である。」「日本の教育は近代国家として出発した初めから、世界滅ぶとも正義を行こなわらしめよ、といった角度でものを考えることの出来ない人間、ものを言うことができない人間しか育てることが出来なかった。そこに真の日本の敗因がある。」「幼年学校が陸軍をダメにしたと同じように(面従腹背型の人間集団にしてしまった。)、師範学校が日本の教育をダメにした根源である。」と考えていたから、これを廃止するとともに六三制の確立に力をそそぎ、教育基本法・学校教育法などを制定した。田中耕太郎が、戦後の教育のグランドデザインをしたのだ。

その後参議院議員(良識の府とも言うべき、無所属議員の緑風会)、参院文教委員長、最高裁判事、最後は、ハーグにある国際司法裁判所の日本人初の判事となる。

…今まさに、時代はこの田中耕太郎の信念から逆戻りしているような気がするのは私だけではあるまい。

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