2014年7月7日月曜日

アフリカの奴隷交易を再勉強。

「アフリカ社会を学ぶ人のために」(松田素二編)は、様々なアフリカ学のスペシャリストの先生方の小論の集合体である。先日エントリーしたように、「アフリカの潜在力」をテーマに書かれているのだが、最初の方は、その前提としての基礎項目について書かれている。今日は、そのうち、印象深かった奴隷交易の歴史についてエントリーしたいと思う。

この項目を書かれているのは中部大学・大阪外大名誉教授の宮本正興先生である。大まかな奴隷交易については私も知っているが、いくつか再発見した事実が書かれていてずいぶん勉強になった。以下、抜書き的エントリーである。

ポルトガルが、太平洋ルートの先駆者である。15世紀、ギニア湾岸では、サントメ・プリンシペの入植地の労働力を求めたのが初めらしい。その後、アンゴラを征服。この2箇所から、ブラジル、その他スペイン領植民地、カリブ海諸島、熱帯アメリカへと移住させられたようだ。次に覇権を得たオランダは、本国では奴隷制が禁止されていたが、帝国内ではゆるされていたというダブル・スタンダード故に17世紀初頭、合衆国やカリブ海地域、さらにガイアナ、ブラジル、東インド諸島へ奴隷を運ぶ。オランダの拠点は現セネガルのゴレ島であった。17世紀末、東海岸では、モーリシャス島、レユニオン島、マダガスカル、コモロ諸島が重要性を増し、サトウキビ農園へフランスが奴隷を運んだ。18世紀の中頃には、ジャマイカ、ハイチが主要な目的地となりイギリス・フランスの独占事業となっていった。

イギリスでは、リバプールを出向する船の1/4が奴隷船で、バーミンガムは(奴隷との)交換用の銃の製造、マンチェスターは綿織物の生産で栄えた。これとあわせて保険業や海運業、金融業が未曾有の勢いで勃興した。ロイド銀行やバークレイ銀行の創始者は奴隷交易で財をなした当時の有力者である。フランスは、オランダからゴレ島を奪い、ナポレオン政権期に奴隷貿易を復活させる。

奴隷交易といえば、アメリカ合衆国を創造しがちだが、実際にはカリブ海諸島(400万人以上)とブラジル(365万人)が2大受け入れ地域で、全体の80%。これはもぐりのもぐりの密売業者の存在と奴隷交易の禁止措置がキューバ(1886年)、ブラジル(1888年)まで遅れたことが要因の1つである。

奴隷交易の影響は、未曾有のグローバル経済を誕生させたことだが、アフリカは人口停滞を余儀なくされ、農牧業を含めて、在来の諸種の産業の発展、あらゆる分野での技術革新が阻害された。交易の見返りにアフリカに大量のマスケット銃が流入し、社会が分断され、安定的なより大きな政治機構の成立が妨げられたわけだ。この後、奴隷交易は廃止されるが、それは必然的に次のレベル、アフリカ分割、さらに植民地経営へと移行するわけだ。

…ヨーロッパ史を中心にすえて世界史Bを講じているが、改めてこういうアフリカからの視点を生徒たちに教えなければと思った次第。

うーん、W杯は、ネイマールの無念もあるし、ブラジルを応援してしまうな。

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