2013年10月27日日曜日

「岩倉使節団」を読む。(その後)

木戸のブロマイド
泉三郎氏の「岩倉使節団」は文庫本ながら760Pにも及ぶ。ロシア行を読み終えた後、長らく放置していた。今日のエントリーは、その後について少し書いておきたい。岩倉使節団は、ロシア訪問の後、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスと巡っている。で、マルセイユから往路では完成していなかったスエズ運河を通過し、帰国の途についている。

最初は欧米の技術力に圧倒された使節団だが、途中から欧米に対して批判的な視点で見ているのだが、それが頂点に達する。インド洋からさらにアジアの植民地ベルト(インド、スマトラ、香港、上海)と帰港していくにしたがい、帝国主義の弱肉強食を目の当たりにしていくのだ。この辺、実は岩倉使節団、さらに明治政府にとって、大きな意味があるようだ。

さて、岩倉使節団の留守中には、征韓論などが沸騰していて、政権も江藤新平や大隈重信といった肥前が幅をきかしていた。早めに帰国した大久保は、有馬温泉につかったして岩倉の帰国を待つ。この辺はやはり全身が政治家と言われた男だ。凄い。木戸は病床にあったが、「国家の非常時の時、三条に代えて岩倉を立て、大久保の奮起を促して協力させるべし。」と伊藤に知恵を授ける。伊藤は、大久保と岩倉の間を駆け回り、岩倉は、やがて自宅に押し掛けた西郷、江藤、板垣らを相手に征韓論を打ち砕く。「まろの目玉の黒いうちは、お主らの勝手にはさせませぬぞ!」という咆哮は、西郷をも男の勝負の爽やかな想いにさせたようで「右大臣、よくぞ頑張りもうしたな。」と言ったという。外遊組の結束力が格段に違ったわけだ。

その後の岩倉は「開化風」に吹かれなかった。木戸、大久保、伊藤らの推進する斬新的開化・立憲君主制には懐疑的で、あくまで王政復古の守護神、天皇権力擁護の立場を変えなかった。明治14年の政変では、プロシア憲法を下敷きにした欽定憲法案をよしとし、大隈の急進的な案をつぶすのである。明治15年、伊藤が憲法調査に出発する時、西園寺公望を同行させた。岩倉がこの時点で国家経営のバトンを伊藤に、公家華族の統領を西園寺へと考えていた証だとする説ある。明治16年、死去。臨終を看取った医師は、あえぎながらもしっかりと遺言を語る岩倉を評して「公の全身はただこれ鉄の意思だった」ともらしている。

その後の木戸は、明治6年の政変(征韓論をぶっとばし薩長が再び政権につく。)で大久保政権が誕生したものの体調がすぐれず思うような活動はできなかった。しかし、大久保の専制を抑えれるのは木戸だけで、大阪会議以降、共和的な「漸次国家立憲の政体」樹立を進める。明治10年西南戦争勃発の最中死去。維新前は「開明派」の総帥、欧米視察後は「保守派」となり漸進主義になった木戸は「文明は一朝一夕にはならず」と主張していた。木戸は市井の人々に人気があり。死後ブロマイドが書店で売られたという。

その後の大久保は、西南戦争を圧伏させ、強力なリーダーシップで近代化を推進した。しかし明治11年凶刃に倒れる。透徹したリアリストであり、驚異の粘り強さで政策を実現させた稀有な政治家であり、上からの殖産興業で富国強兵を目指すと言う日本の進路はまさしく大久保の引いた路線である。

その後の伊藤は、岩倉を後ろ盾に大隈と二人三脚で大久保の路線を引き継いだ。明治14年の政変で大隈を退けた後はトップリーダーとなる。明治22年、訪欧して明治憲法制定にこぎつける。岩倉使節団帰国後に、木戸が「日本だけの」大久保が「日本独自の」とそれぞれの意見書に書いた共和制でも君主制でもない憲法であった。伊藤は、仏教や神道は(欧米のキリスト教のような)宗教としての力をもたない。だから「我が国においては機軸とすべきは独り皇室あるのみ。」と述べている。憲法を補う形で「教育勅語」が制定され、「和魂の砦」としたのだった。幕末以来のスローガンだった「和魂洋才」は、これによって始めて社会に具体的な形として根を下ろしたのだった。

このように、岩倉使節団の影響は甚だ大きいわけだ。さっそく日本史研究の授業に活かすことにしたい。

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