2013年10月16日水曜日

毎日 「あまちゃん」批評を読む。


毎日新聞の今日の夕刊・宇野常寛氏の「新時代を読む」というコラムに、「あまちゃんと現代日本/30年の精神史 批評的に描く」と題した先日終わったNHKの連続ドラマ「あまちゃん」の批評が載っていた。

宇野氏の批評を概説すると、この物語はヒロインのアキの母・春子の物語であり、「失われた20年」と重ね合わされる。80年代に夢見た「明るい未来」を手にできなかった日本の姿とローカル線廃業の危機・東北のコミュニティーの衰退を「春子」は体現していたというのだ。

アキが、春子の果たせなかった夢を実現するために上京するのだが、それは、「失われた20年=テレビの時代=歌番組アイドル」の過ちを、「現代=インターネットの時代=地下アイドルの時代」の新しい想像力で修正していくことに他ならないというわけだ。

なるほど、そういう見方があったか、と思った。いつか、こういう「あまちゃん論」が出てくるのではないかと、私はひそかに願望していた。宇野氏の評論は他の部分(大震災との関わり・東北という地方の問題など)にも及んでいるのだが、その中心的な部分は、「失われた20年」を基軸としている。

私も、海女カフェで、鈴鹿ひろみが歌う際に、春子に手渡されたワイヤレスマイクの電池が飛び出し、フトマキ氏の額を直撃したシーンが、その過ちの精算の瞬間だったような気がする。

妻は「あまちゃん」が好きで、よく鼻歌で「潮騒のメモリー」を歌う。(笑)実は私も歌える。(笑)あまちゃんの魅力はストーリー、登場人物の魅力、ディティールのコミカルさ、そして音楽と、全てが優れていたからだと思う。宇野氏が最後に、個人的な見解だが、としたうえで、バトンタッチを受けたアキたちが震災後の社会をどう生きていくのか続編を見たいと述べている。私も全く同感である。まずは、年末にでも、もっと長い総集編を放送して欲しいな。なにせ土曜日の分しかライブで見ていない私である。(笑)

<本日の画像はフトマキ氏の額に電池が直撃した瞬間:以下のブログより>
http://ottsan.blog.so-net.ne.jp/2013-09-25-4

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