2013年10月24日木曜日

「捨てる」日本料理

詩人 草野心平
今週はひたすら空き時間は修学旅行の書類(しおり)づくりに追われている。根をつめての作業なので、疲れる。今日など1・2時間目集中に集中して、生徒用の行程表を完成させた。その後昼休みをはさんで4時間授業が続いた。さらに放課後も…。老体に鞭打ってというより、自分で寿命をちぢめているのではないかと思ってしまう。だが、私にとっては、何が何でも見やすくて美的な「しおり」にこだわるのだ。B型というか、デザイン科卒の芸術肌というか…。

と、突然話題を変えたい。日本料理が無形文化遺産と認定されるらしい。今朝の日経の「春秋」に詩人草野心平が、「日本料理は捨てる料理である。」と書いているという話が載っていた。なるほど、日本料理の素材を活かす道は、捨てるという過程が不可欠である。

今週は超多忙だったのだが、先日放課後に我がクラスの男子生徒とじっくり対話した。その生徒が急に髪型を変えてきたのである。聞くと中間考査が終わり、以前からあこがれていた髪型にしたのだという。本校は、生活指導がきびしい。当然朝、正門をくぐったら指摘されたという。私が朝のSHRで驚いたぐらいだから当然である。私は、どちらかというと生徒の方に降りて行く方なので、まずはじっくりとその思いを聞いた。で、私はこう言ったのだ。

「人生とは、ある意味で捨てることの連続ではないか。」誰しも希望や夢はある。それを追い求めることは当然だ。だが、すべてがかなうわけではない。ひとつひとつ価値の低い希望や夢を捨てていく。そして捨てられないものだけが残る。これがその人間のアイデンティティだと私は考えている。髪型というものが、彼にとってどれくらい重要なものなのか、私には推し量れない。だが、「今の自分をじっと見つめてみて、どうしても捨てられないのなら、それは仕方がない。だが、もっと重要なことがあるというのなら、捨てられるのなら捨ててしまうべきだ。」と私は言ったのだ。

翌日、彼は髪を切ったわけではないものの、ぐっとおとなしい髪型にしてきた。そこまでは捨てれたのだろう。日本では集団の中で、こういう経験が人間を作って行く。

日本料理も、そういう集団の中での長い伝統がつくったような気がするのだ。「捨てる」ということ。それはある意味、その素材を極めるために必要な、日本の「無形のカタチ」かもしれない。そして捨てられず残るものは、美しい。日本の「有形のカタチ」だと思う。

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