2024年8月31日土曜日

「聖書の同盟」書評 続編4

ニクソンの後、副大統領だったフォードが継ぐが、、民主党のカーターが政権を奪う。彼は南部出身の福音派で、1979年、キャンプデ―ビット和平合意(エジプトのサドト大統領とイスラエルの右派首相ベギンを13日間缶詰にした。)を達成、翌年両国は平和条約を結ぶ。両者はノーベル平和賞を受賞するが、サダトは第4次中東戦争開戦記念軍事パレード中にイスラム過激派に暗殺される。アラブ連盟はエジプトを除名した。また、カーター政権の末期には、イラン革命が起こる。

カーターを大差で破ったレーガンも、福音派で、キリスト教シオニストである。自伝では「私は人生で多くのことを信じてきたが、アメリカはイスラエルの生存を保証しなければならない、という信念より強いものはない。」「文明世界はヒトラーの狂気の最大の被害者に負債がある。」と書いている。

イスラエル国内では、東エレサレムのユダヤ化よ占領地への入植が推進された。リベラルな「アシュケナジ」のシオニスト主流派から、右派の「スファラディ」の”リクード”のベギンに政権が移っていた。キャンプデービッド合意で譲歩したベギンは、1980年東エレサレムを含むエレサレム全体を首都と宣言する「エルサレム基本法」を成立させた。国連安保理は国際法違反決議を採択。この時、アメリカは棄権した。安保理決議に従い、13カ国の大使館がテレアビブに移転した。さらに、1981年、イスラエル空軍は、イラクのバグダッド南方100kmにあるトワイサ原子力センター内の原子炉をF16 8機で空爆。(画像参照)成功後、駐イスラエル米大使に伝えた。”イスラエルを守るためにはどんな手段をも用いる”という「ベギン・ドクトリン」を宣言したのだが、防衛目的のみという条件で供与したF16を事前通告すらなく空爆に使ったことに、レーガンは強い不快感を示し、国連安保理での非難決議に今度は賛成した。ちなみに、この作戦に参加した最年少パイロットは、後年初のイスラエル人として、スペースシャトル・コロンビア号乗員となったが、空中分解事故で亡くなっているという。

更に、ベギンは、ゴラン高原を併合。またまた非難決意が採択され、アメリカも賛成に回っている。ベギンには悩まされ続けたレーガンだったが、レバノン侵攻の失敗の責任を負わされ退陣。後継のシャミル首相は、軍事研究開発・防衛産業間の相互調整・情報機関の連携強化へも関係強化を広げ、さらなる支援を引き出した。アメリカは、イスラエルを非NATO主要同盟国(MNNA)に指定したのだった。

https://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd250.html
…意外だったのは、アシュケナジ(東欧を中心としたヨーロッパにディアスポラしていた人々)は、シオニズムの中心的存在であったが、進歩的・リベラルな存在で、スファラディ(南欧からアフリカ・中東地域にディアスポラしていた人々)の方が右派的であるという構図である。私がこう思うのは、キリスト教徒からの迫害が強かったヨーロッパ圏に対して、イスラム圏は啓典の民として比較的差別がゆるかったからである。この逆転現象はどうなっているのか、新しい疑問が湧いてきたのだった。少しだけ、調べてみたが、どうやら経済格差の問題が絡んでいるようである。いつか、この問題についても、じっくり調べてエントリーしてみたい。

…「ベギン・ドクトリン」と、国際世論を強く意識しながら支援を続けるアメリカの構図は、基本的に現在も変わらないわけだ。よって、「聖書の同盟」の書評続編は今回で終了としたい。

2024年8月30日金曜日

「聖書の同盟」書評 続編3

https://dime.jp/genre/1599807/
ニクソン共和党政権では、現実主義の国際政治学者・キッシンジャーハーバード大学教授が国務長官になる。ドイツ出身のユダヤ系移民。ニクソンは、当時のイスラエル首相メイヤーとの首脳会談で、核実験なし、公式に核保有を認めないとの条件で、イスラエルの核保有を黙認した、と言われている。

この頃、PLOのアラファトが国際舞台に登場。PLO内の非主流派のPFLPが旅客機乗っ取りなどの派手なテロ事件を起こし、日本赤軍も呼応し現ベングリオン空港での乱射事件を起こしている。ちなみにこの時犠牲になった27人のうち、21人はプエルトルコの巡礼者だったらしい。

しかも、エジプトのサダト大統領が、シリアのアサド大統領(現大統領の父)とともに、第4次中東戦争を起こす。TVも車の通行も止まる祝祭日・ヨムキブール(贖罪の日)を狙った。イスラエル政府は、この攻撃の確かな情報を、ナセル前大統領の娘婿から得ていたが、アメリカの先制攻撃をしたら十分な支援はしないと釘をさされた故に、アラブ側の攻撃を甘受した。ニクソンは、軍事物資の緊急空輸と巨額の緊急支援を議会に要請。OAPECが石油戦略に出て、いわゆる石油ショックが起こる。その後、ニクソンはウォーターゲート事件で失脚することになる。

…ニクソンは、実に不運な大統領で、極めて評判が悪い。この本は、アメリカとイスラエルという視点に固定しているのでえ、他のことは全く出てこない。ケネディージョンソンの負の遺産であるベトナム戦争の敗北、ベトナム戦争の戦費増大に端を発する財政不安から起こったドルショック、そしてこの石油ショックと立て続けに、アメリカの「負」を背負わされることになった。一方で、対中国の国交を開いたりもしているが、後にジョン・レノンが住んでいたNYのダコタアパートへの入居を住人たちに拒まれたりと散々である。まあ、ウォーターゲート事件のイメージも最悪だけれど…。

2024年8月29日木曜日

デコピンの始球式と42-42

https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/
photonews/photonews_nsInc_202408290000641-1.html
ボルチモア・オリオールズとの第二戦、始球式はなんと大谷選手の愛犬・デコピンだった。マウンドからボールを加え、ホームで待ち構える大谷選手めがけて走ってきた。(笑)デコピンもドジャーズのユニフォーム(背番号は17、ネームはDEKOPIN)を着ていた。いやあ、まいった。こういう始球式を考えたドジャーズは、凄いと思う。まさに、アメリカのプログマティズム。

デコピン効果だろうか、大谷選手は、1回裏先頭打者ホームラン。その後もヒット、盗塁もこなし42-42としたのだった。死球を受けたりいろいろ不安材料もあるのだが、なんとか怪我なくポストシーズンを迎えてくれるよう祈るばかりである。

2024年8月28日水曜日

「聖書の同盟」書評 続編2

https://note.com/ooya113/n/n24eb28e241cb
世界価値観調査の教材で、アメリカは伝統的な価値(特に宗教)を重視する一方で、多様な価値観も持っているというゾーンに位置する。授業でも、その謎解きをしている。生徒諸君のアメリカのイメージは、ヨーロッパの先進国並みだといえるが、前述のように、聖書の内容を純粋に信じている福音派が25%もいること、この象徴的な事件が、テネシー州の進化論教育のの是非を争ったスコーブス(モンキー)裁判である。受験の世界史には登場しない話だが私はアメリカという国の理解には極めて重要な話だと思っている。本書には、詳しく書かれていて興味深い。

この進化論教育を否定する州法成立に尽力したブライアン元国務長官が検察側に立った。大統領選挙に3回も出馬した大物政治家で、裁判は検察側が勝利したものの、ラジオ中継された弁論では創世記の矛盾をつく弁護士に四苦八苦し、全米の笑いものにされ、裁判の5日後に憤死している。

「時代遅れの田舎者」という汚名を着せられたブライアンだが、社会的弱者への同情心を持ったリベラルな政治家で、巨大企業の独占禁止、労働条件の改善、婦人参政権、平和と軍縮などに取り組み、米西戦争後のフィリピン併合にも反対したウィルソン民主党政権の外交政策がWWⅠの参戦につながる、と抗議して国務長官を辞任した人物なのである。

ブライアンがキリスト教原理主義に接近したのは、世界大戦の凄まじさから楽観的な世界観が崩壊した故で、特にWWⅠでのドイツの軍国主義は社会進化論(ダーウィンの進化論を社会に応用・解釈した論)の影響だと考えたのである。その後、台頭したナチスが、この社会進化論の優生思想による安楽死名目で障害者大量殺人から、ホロコーストへ進んでいったWWⅡの歴史を見れば、ブライアンの問題意識は鋭かったといえる。適者生存の社会思想は、敵愾心や闘争心を煽り、弱者への同情心や共感を消し去ると考えたブライアンは、社会的ダーウィニズムを主敵と定め、子供たちの心に悪い影響を及ぼす進化論教育と戦う福音派の十字軍戦士となったわけである、と著者は記している。

…この裁判の深い部分を知る機会を得た。こういう知の集積は極めて重要だと思う。…つづく。

2024年8月27日火曜日

「聖書の同盟」書評 続編1

https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fcinemore.jp
%2Fjp%2Ferudition%2F896%2Farticle_897_p2
.html&psig=AOvVaw1mXVRt5yBqS4EcXXSFV9zX&ust=
1724840014625000&source=images&cd=vfe&opi
=89978449&ved=0CBcQjhxqFwoTCOCfg_n3lIgDFQAAAAAdAAAAABAE
8月9日から11日にかけて、「聖書の同盟」(船津靖/KWADAE新書)の主にキリスト教シオニズムについての部分の書評を書いた。それ以後は、現代史的な論述であったので、少し置いておき、本格的な教材研究に時間を費やしていた。本日は、後半の現代史的な部分で興味深い、いくつかのエピソードについて記しておこうと思っている。

トルーマン以降、イスラエル支援を主導する政党は共和党に移行していく。トルーマンの跡を継いだアイゼンハワーは共和党だが、イスラエルには冷たく、第二次中東戦争(スエズ動乱)では、イスラエル軍にシナイ半島からの撤退を求め、有無を言わせず従わせている。イスラエルからの兵器提供の要請にも応じていない。人気の高い、ノルマンディ上陸作戦の英雄には、ユダヤ系の選挙資金は必要がなかった故であるらしい。

…同時に、元軍人ながら、退任演説で「軍産複合体」を批判したアイゼンハワーらしいスタンスであると私は感じた。演説の和訳もあった。以下のURL参照。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Eisenhowers_Farewell_Address_to_the_Nation_January_17_1961.htm

次のケネディは、イスラエルの核開発をやめさせようと査察官の受け入れを強く迫ったが、時間稼ぎをされている間に暗殺されてしまい、結局イスラエルの核開発は秘密裏に進んでいく。

副大統領から昇格したジョンソン時に、第三次中東戦争が起こる。この時、イスラエルはかなり領土を拡大するが、ヨルダン支配下だった東エルサレム(神殿の丘を含む)を西エルサレムに併合しているのだが、ジョンソンの働きかけで、国連安保決議はイスラエル国家の生存権を認め、占領地撤退を必ずしも求めないと解釈できる決議文となった。第三次中東戦争の勝利は、福音派を歓喜させ、高学歴が多い主流派(メインライン)から馬鹿にされてきたれど、自分たちの神学(=聖書の内容を文字道理受け取る)はまちがっていないという自信を与え、影響力を強めるとともに、南部の白人保守層が共和党の支持層となっていく。ベトナム戦争の最中で理想を夢見る若い男女を苦々しく思っていた彼らを「サイレントマジョリティ」(声なき大多数・物言わぬ一般大衆)という表現を有名にしたのは、次の大統領になるニクソンである。当時の民主党期待の候補は、JFKの弟、ロバート・ケネディであったが、エレサレム生まれのパレスチナ人系のあアメリカ人青年に射殺された。

…本書では、アメリカとイスラエルという固定的な視点で現代史が語られていく。かなり詳細で興味深い。ところで、サイレントマジョリティのところで出てきたベトナム戦争時の若者のヒッピー文化を南部の福音派はかなり嫌っていたようだ。何と言っても思い出すのは、映画イージー・ライダー(画像参照)である。ラストシーンは、髪の毛が長いというだけで射殺されるのだが。初めて、アメリカをレンタカーで旅した時(サウスダコタ州~ワイオミング州)、車内で流していたのが、この映画の主題歌・ステッペンウルフの”Born to be Wild”である。高校時代から馴染みの深い映画でなんとも理不尽なラストに衝撃を受けたものだが…。さて、ロバート・ケネディは、ワシントンDCのアーリントン墓地で兄とともに葬られており、私も墓参した経験がある。これらも全てアメリカの実相である。…つづく。

2024年8月25日日曜日

精米機とペッパーライス

最近はどこのスーパーでも、米が商品棚に並んでいない。かなりヤバいと私は想っているのだが、妻は玄米をこれまでコツコツと貯め込んでいる。玄米は日持ちが長いらしい。そこで必要なのは、精米機である。ずっと以前から妻が欲しいと言っていたのだが、先日枚方のニトリモールにあるY電気でついに発見して、購入したのである。ただ在庫がなかったので取り寄せになった。それで今日、引き取りに行ってきた。予定では、今回の強い台風が関西に直撃視するかもしれないという時期のはずだった。存外に早く手に入れることができたので我が家としては喜んでいる。

さて、ニトリモールにはフードコートがあって、もっぱら長崎ちゃんぽんをこれまで食べてきたのだが、前回、違うものに挑戦してみた。ペッパーランチという店のペッパーライスというものだ。熱々の鉄板に牛肉と米が乗っていて、これを混ぜて食べるのだが、完全にハマってしまった。今回も同じように、ペッパーライス。なにより、お米がお焦げ化するのが美味い。肉の旨味も混ざり合ってなかなかの絶品だと私は想う。

2024年8月24日土曜日

大谷選手の40-40

https://www.nikkansports.com/baseball
/mlb/news/202408230000477.html
大谷選手が、レイズ戦で、40個目の盗塁を決め、さらに9回裏2アフト満塁の場面でサヨナラ本塁打を打っで40本塁打に達した。MLBで史上最速の40-40であり、まるで漫画のような活躍だ。

まだシーズンは続くので、本人にとっては通過点でしかないと思うし、何より重量なのはポストシーズン進出だろう。しかしまあ、こんな凄い選手、まさに日本の誇りである。「たかが選手」と見下している最低の人間もいるようだが、今シーズン、様々な試練が襲いかかったが、それを全て乗り越えて、常に結果を残している大谷選手のメンタル面を大いにリスペクトしたいと思う。

2024年8月23日金曜日

YouTube 京都学派の話

https://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/blog/?p=3489
妻から面白いYouTubeがあると教えてもらった。”もぎせかチャンネル”である。西田哲学を中心に、様々な話が出てくる。01は今なぜ京都学派なのか 02は近代の超克とユーラシア主義 03は禅と神智学 04はハイデガーと善の研究と続いている。05はまだ配信されていない。(配信され次第見ていくと思う。)おそらく、私の倫理の授業を受けた学園生(今春の卒業生)ならば、十分理解できるはずである。是非、見てほしいと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=AZIfPWBQ4eA

https://www.youtube.com/watch?v=m89w-hxSCyY

https://www.youtube.com/watch?v=tWBZdSnVpFU

https://www.youtube.com/watch?v=IE07q72NOh4

2024年8月22日木曜日

南部アフリカ聖霊教会のこと

南部アフリカに、独立系キリスト教会が多いというデータブックの記事(昨日のブログ参照)が気になったので、少し調べてみた。最も参考になったのは、「宗教の始原を求めてー南部アフリカ聖霊教会の人々」(吉田憲司/岩波書店)の小泉真理氏(清泉女学院大学)の書評である。著者の吉田氏は文化人類学者で、国立民族学博物館館長である。

ザンビア東部州の仮面結社の調査から、ズィオン聖霊教会の調査を始めたらしい。聖霊に憑依された霊媒が病気治療、託宣、発見を行うことを特徴としたキリスト教会である。

キリスト教の広がりは、彼らの死生観や再生観に根本的な変化を起こしてはいないらしく、聖霊教会の主な活動は病気治療であるらしい。

1990年代の未曾有の混乱期(ゲリラや旱魃、貧困、エイズ)に急速にキリスト教は拡大したが、(血縁・地縁とともに)相互扶助の回路として広がった。治療儀礼では、聖書の聖句をよりどころとして、災因を動物霊や祖霊、邪術と疑う依頼者と問答を繰り返し、納得がいく語りが生成されていくそうである。また洗礼時には儀礼の中で信徒が聖書の世界を忠実になぞり実現し、聖書の世界が現実として生きているという。

さらに、南アフリカ、マラウイ、ジンバブエの聖霊教会とザンビアの聖霊教会の系譜的関係が検証されていく。ペンテコステ(使徒言行録にありイエスの復活の10日後に聖霊が降臨、各人が異言で語り始めた)系の影響が大きいようである。

…かなり簡略化して記してみたが、これまでのアフリカ・ウォッチヤーとして、ある程度予想していた内容だった。キリスト教の本流から見れば違和感があるかもしれないけれど、タイトルに有るように、宗教の始原という視点から見ると、シャーマニズム的な要素はそもそもある(聖書にも病気治療などの多くの奇跡がある)わけで、やはりアフリカは興味深い、と私などは思う次第。

2024年8月21日水曜日

2024 Data Book of the world

7月2日付ブログの「世界価値観調査のプリント化」の解答を今日していた。遅くなったのは、正解を書き込むのに絶対必要な(最も信頼できると言い換えても良い)「2024データブック・オブ・ザ・ワ―ルド」(二宮書店)を職員室の机上に置き忘れていた、という理由による。(笑)この本を見ながら解答を入れていくと、意外なことが改めて浮かんできたである。

まずオランダの宗教事情。カトリックのスペインから独立したゴイセン(カルバン派)の国であるし、プロテスタント(カルヴァン派の総称として:様々な宗派に分かれているのでこう称するしかない。ルター派や聖公会とは区別される)が多いと思っていたのだが、カトリックが30%、プロテスタントが20%、無宗教42%になっている。個人の自由や人権を重視する国であるし、今や無宗教が多数派なのであった。スイスもカルヴァンの宗教改革の本拠地であるが、カトリックが42%でプロテスタントの35%を抑えている。ちなみに、北アイルランドも、カトリックが46%、プロテスタント44%。紛争は収まったとはいえ、微妙な数字である。こうしてみると、意外にカトリックは強いわけだ。

ベトナムも、仏教のイメージがあるが、無宗教は81%。社会主義政権の影響はここにも出ている。中国は統計がないし、信教の自由を保証しているが、おそらく無宗教がほとんどであろう。こういう社会主義の影響は、ヨーロッパの旧社会主義国にも顕著である。

興味深かったのは、今回の調査国として登場したアフリカ諸国の中で、南アとジンバブエで、独立系のキリスト教会が首位にあることだ。南アは37%、ジンバブエは38%である。南部アフリカに独立系が多いらしく、ボツワナのキリスト教71.6%はほとんど独立系という記述があった。アンゴラ、エスワティニ(旧スワジランド)や(旧フランス領の)コンゴなどにも、多数派ではないものの独立系の%記述があった。

ちなみに、モーリシャスはヒンドゥー教が49.6%でアフリカ唯一の多数派。インド系の人々が多いわけだ。ザンビアには、バハーイ教1.8%、ベナンには、ブードゥ教17.3%ともあった。バハーイ教は一言で説明しにくいが、イスラエル行の時、ハイファという街でその存在を知った一神教である。ブードゥ教は、ゾンビで有名な実に興味深い呪術的な宗教である。

2024年8月20日火曜日

PowerPoint教材 新教の対比

PowerPointでプロテスタントの対比を引き続き作っている。これまで以上の教材になったと自負しているのだが…。

やはり意外に難しいのは、聖公会(=英国国教会/アングリカン)である。調べれば調べるほど、世界史になってしまう。(笑)ブログ前述の内容をできる限り簡潔に表そうとしても複雑になる。結論は、ハイ・チャーチとローチャーチの全く異質な存在が共存しているということになる。この辺は、宗教一般にありがちな「伝承」「伝統」という言葉で括られることなのだろうか。日本で言えば、神仏習合のような…。
昨日の宗教科の先生も、カトリックの中で、多くの聖職者が時間をかけて作り上げた「伝承」の中にも間違いがあって、典礼時の内容から反ユダヤ的な文言が外されたり、煉獄の存在は今やかなり語られなくなったと言われていた。第三者としては、あまり突き詰めないほうがいいのかな、などと想う。

2024年8月19日月曜日

カトリックのカテキズム

学院の図書館で、カトリックのカテキズムを借りてきた。「カトリックの教えー新カテキズムのまとめ」(ドミニコ会研究所篇/ドン/ポスコ社)である。1992年のヨハネ・パウロ2世が交付した新カテキズムの要点を手軽に知りたい人のために編集されたものであるとあった。これに合わせて、宗教科の先生(南米出身で日本のJ大学に留学して現職)に、夏季休業中に教材研究したプリントの内容について、1時間ほど、いろいろと質問し、対話したのだった。

カトリックの「伝承」とはなにか?、三位一体の「聖霊」の具体例を中心に、細々とした質問にも快く応じていただいた。ありがたい話である。中でも現教皇のフランシスコ氏(アルゼンチン出身)が、まだ南米におられた頃、また来日した頃に個人的にお会いした経験があるそうで、これには驚いた。なお、「カトリックの教えー新カテキズムのまとめ」についても印象に残った箇所をいずれ整理して行こうと思っている。

2024年8月18日日曜日

PowerPoint教材 旧教の対比

朝からPowerPoint教材を作っていた。まずは、世界価値観調査の図を4分割し、それぞれの特徴をプリントに従って解説するためのツールである。

伝統的な価値観が重視され、経済的には決して裕福とは言えないAゾーンは、やはりAA(アジア・アフリカ)諸国が多い。中でも、イスラム諸国が多く見受けられる。イスラム教の解説はまだ後なので、ここはスッと解説して終わるつもりなのだが、ブログでは、私なりに熟慮したことも記しておきたい。まずはじめに私はイスラム教徒を決して揶揄するつもりはないことを明確にしておきたい。マレーシアで3年半生活して思ったことは、六信五行の「予定」(神によって運命が定められていること)が、各個人の向上心を阻害している可能性が強いことである。かのマハティール元首相は、その点を鑑み、ルック・イースト政策を取り、日本に多くの留学生を送った。しかしながら、なかなかうまくいっていない。もちろん、エリートである留学生は勤勉さを始めとした日本の良さを実感・また実践しているが、直接知らない一般のマレー人は、その勤勉さを理解できないようだ。PBTのマレー人学生たちは、日本語学習の成果で半分日本人的だったし、それ以上に留学候補生の試験を突破したエリートである。PBT出身で国立K工業大学に学び、日本企業に務めた後、母国に帰ってきたOBは、その実践の難しさを吐露してくれた。日本人企業家も、一応にマレー人の人柄は良いのに、すぐ休む、すぐ辞める姿勢に閉口していた。南国の気風もあるだろうが、神に運命を定められているので、努力する必要を認めないという姿勢があることは事実である。これでは、なかなか国の経済力は発展しがたい。しかし、私は勤勉が善である、正義であるとは思わない。アフリカでも、マレーシアでも、はたまたアメリカでも、人間の幸福とは何であるかという問いかけをされた経験を持っている。きっと答えなどないと思うのだ。

カトリックとオーソドックス(正教会)の対比のPowerPoint教材は、カトリックの学校に学ぶ生徒たち故に、オーソドックスとの違いを中心に作ってみた。内容は、前述(8月6日付ブログ参照)のプリントの対比表に準拠してある。宗教科はカトリックの教義というより、福音書の内容を中心に教えておられるそうで、三位一体論は高校生に難しすぎると言っておられた。たしかに、「聖霊」という概念は、特にわかりにくい。ブディストである私もそう思う。その辺はうまくかわしながら、違いを説いていこうと思う。さてさて反応は如何に…。

2024年8月17日土曜日

一神教・三宗教の対比プリント

朝早くから、昨日の続きでユダヤ教・キリスト教・イスラム教の対比のプリントを作成していた。このテーマは、今まで何度もプリント作成をしているのだが、作れば作るほど詳しくなってしまう。左の方には、この三宗教の基本的共通点について記したつもりである。①神と最初に契約したアブラハムを始祖とすること。②モーセの十戒を始め、多くの預言者が登場して、「掟」が形成されたこと。この「掟」の概念は重要で、キリスト教においてもイエスの律法の成就で、事実上完成し、パウロが割礼などの律法を破棄していったからこそ世界宗教になりえた、という内容にしてある。イスラム教は、この律法の伝統の上にあることは間違いない。

ユダヤ教については、さらに原罪、終末、救世主といった基本的な概念が重要で他の二宗教に大きな影響を与えている。また自由な議論を行う伝統、これはユダヤ人が優秀であることの基盤となっていると思われるので挿入しておいた。キリスト教については各宗派の対比もした後なので割愛し、イスラム教については、この二宗教の伝統の上にあること、しかし選民思想や三位一体を批判し、礼拝時に暗証するクルアーン第1章のことを記した。さらにシャリーアについて、六信五行について解説した。イスラム教もユダヤ教同様の神定法で縛られているように見えるが、実際にはフィクフという絶対に守るべき掟、守ったほうがいい掟、どちらでもよい掟など、実に柔軟であるし、他者に口出しをしないことも大きな特徴である。

対比の表については、生徒諸君の興味を引くための事項も取り入れた。礼拝時の対象や食物規定、割礼の有無などである。教義面で重要なのは、原罪の有無、終末の捉え方(これは三宗教で似ているような似てないような話である。)である。

最後に、スンニ―派とシーア派の相違について記した。イランとイスラエルの対立の中、イランの十二イマーム派の発想を理解するためには、「五信十行」も教えたほうが良いと判断した次第。好戦性とともに理性的判断も加味されていることは、前回のイスラエルへの直接攻撃で実証されていると私は思う。

2024年8月16日金曜日

追憶 京都五山送り火

https://kyototravel.info/daimonji
午後8時から、京都で五山送り火が今年も行われている。送り火の夜は京都は大変な人出である。学生時代、嵐山のレストランでバイトをしていたが、この日はめちゃ忙しかった。そもそも昼間に甲子園に応援に来ていた高校生の団体客がバスで押し寄せてきて、てんやわんや。さらに夜も大賑わいで大変だったのを覚えている。ゆっくり送り火を見る余裕など、これっぽちもなかったのだった。(笑)

豊田勇造というフォークシンガーがいる。「大文字」という歌があって、♪男の背中で、大の字に山が燃える…という歌詞が魅力的だ。なかなか盛り上がらない中でLIVEを続けていく悲哀を歌ったものである。

https://www.google.com/search?q=%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%8B%87%E9%80%A0+%E5%A4%A7%E6%96%87%E5%AD%97&rlz=1C1QABZ_jaJP1003JP1003&oq=%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%8B%87%E9%80%A0&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqBwgBEAAYgAQyCQgAEEUYORiABDIHCAEQABiABDIHCAIQABiABDIHCAMQABiABDIHCAQQABiABDIHCAUQABiABDIHCAYQABiABDIHCAcQABiABDIHCAgQABiABDIKCAkQABiABBiiBNIBCTg0ODBqMGoxNagCCLACAQ&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:91cd130a,vid:8irNvA_11Kc,st:0

豊田勇造氏とは、だいぶ前に春一番のコンサートで直接会って話すことが出来た。もうかなり老けてしまったが、今も現役らしい。実に嬉しいことだ。

基督教各宗派の対比プリント

来週から、いよいよ3年生の授業が始まる。熟慮を重ねてきた「世界価値観調査」(7月1日付ブログ参照)を元にした教材プリントを作っている最中で、まずは生徒諸君に課した「世界価値観調査」の分析の正解(?)から入ることにした。(画像参照:拡大可能)

学院はカトリックの学校なので、宗教科の授業などある程度の知識があることを踏まえて、まずは正教会との対比を表にしてみた。相違点として、①聖霊の発出(フィリオクエ問題)でカトリックはイエスからも聖霊が発せられるとしていること。②最高位聖職者と使用言語。③教会の政体。④十字架の形態。⑤イエスの母であるマリア(聖母という言い方はカトリックのもの。正教会では生神女。)が仲保者であるのは同じだが、カトリックでは、イエスとともに原罪ののない存在なのに対して、正教会では原罪を認めていること。⑥聖人崇敬。カトリックのほうが多めである。⑦聖像問題。3次元の彫像はカトリックのみ。⑧煉獄の有無。煉獄はカトリックのみ。⑨ちょっと専門的すぎるかも知れないが、ヨハネの福音書の冒頭「はじめに言葉ありき」を、カトリックはクリスマス、正教会はイースターの際に拝読する。これは、典礼における重視度にも関係する。正教会に対して、カトリックの柔軟さが目立つと私は思う。

次に、カトリックとプロテスタントの対比である。かなり悩んだのが配列である。カトリックに最も近いプロテスタントはどこか?ルター派か?聖公会(=英国国教会)か?結局、聖公会を、ハイ・チャーチとロー・チャーチに分けることにした。政体と教義をもとに考えると、アングロ・カトリックと呼ばれるハイ・チャーチが最も近いという結論になった。次にルター派、さらにロー・チャーチ、カルヴァン派にした。対比については、①啓示の源泉だが、ハイチャーチの聖書と伝承+理性が少し難解だが記しておかなくてはならない。②教会の政体では、カトリックの司教制と聖公会の主教制は近い。他は万人司祭制だが、ここで確認中に聖公会では司祭は牧師と呼ばれることがわかった。(過去のブログを訂正)③聖母信仰と④聖人信仰については、それぞれ◎◯△✕で示した。⑤聖像問題についても同様。⑥あと、国教にしている国や、教会税を取っている=公定教会制の国も示した。ドイツは、宗派にかかわらず教会税を取っているようである。

さて、次は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の対比へと進む予定。同時にプリントに沿ったパワーポイントを順次作成していくつもりである。

2024年8月14日水曜日

100分de名著 「旧約聖書」

先日、「聖書の同盟」を購入した時、レジの近くで100分de名著「旧約聖書」を見つけた。このところキリスト教の研鑽を続けているが、そのもとになったユダヤ教については、私はある程度の見識があると思っている。で、無視しようと思ったのだが、著者が千葉大学の加藤隆氏であったので、気が変わった。

加藤隆氏は私が良く教材に使う「武器としての社会類型論」の著者である。そもそも神学が専門の教授である。パラパラと見ていると、かなり詳しい図解や年表があって、買って損はないと思ったのである。じっくりと読むことはないだろうが、手元において時折目にしたい本である。よって全体の書評を記す気はないのだが、面白い箇所があったので、今回は備忘録的に残しておきたい。

旧約聖書のメインであるモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)については、「四資料説」というのがある。エズラが中心となって編纂した際の主要な資料があり、それぞれJ・E・P・D資料として表す。もう少し詳細に記すと、J:ヤーヴェ資料(ソロモン王治世末期か南王国初期の前10―9世紀成立。エデンの園、アブラハムの話などユダヤ民族の起源物語。神の名にヤーヴェが用いられ、その名を冠している。)、E:エムロヒ資料(前8世紀に北王国で成立。北王国版のユダヤ民族の起源物語で、アブラハムの物語から始まる。)、D:申命記資料(前7世紀成立で南王国のヨシア王の宗教改革時に作成された掟集。)P:祭祀資料(バビロン捕囚時の前6世紀、捕囚の中にいた祭司が中心になり作成。天地創造から始まる。ユダヤ民族の起源物語の祭司的改訂版ともいうべき。)の4つである。

要するに、エズラ達は、3つの歴史物語(南王国=ユダ王国版・北王国=イスラエル王国版・バビロン捕囚時の祭司改訂版)と、1つの掟集の「四資料」を元に、切り貼り細工のように編纂したようである。

私もかなり前に気づいたのだが、創世記には矛盾点(例えば、エデンの園のアダムとイヴの話と6日間の創世神話では、人類の誕生に相違がある。)があるのだが、エズラ達はできるだけ資料に忠実に編纂した故の矛盾なのである。ちなみに、Dの申命記資料は、モーセの演説の形に再編成されている。ところで、この「四資料説」はあくまで仮説であるそうだ。

2024年8月12日月曜日

追憶 アムトラックの旅

https://route66oudan.com/
YouTubeで、カナダ・トロントから日本に帰国する青年が、シカゴからロスまでアムトラックのコーチ(普通車)で旅する様子を見た。アメリカの鉄道は、長ーい貨物列車が中心で、旅客輸送は二の次である。貨物列車優先故、遅れも度々発生する。それを十分認識したうえで乗らなければならない。好感の持てる青年は、日本人らしく礼節と謙虚さをもって旅をしていた。特にあまり注目されないような田舎の様子も映し出されていて、なかなかいい内容だった。

https://www.youtube.com/watch?v=M4VbAK_l-RY

私はアムトラックに2度乗ったことがある。最初はニューヨークのペン・ステーションとワシントンDCのユニオンステーションの往復。二度目は、ロスのダウンタウンにあるユニオンステーションからサンディエゴまで。日本の鉄道旅行とは、だいぶ違うので面食らった。

まず、発車の合図がない。(笑)これはなかなか恐ろしい。完全自己責任の世界である。NYのペンステーションは、マディソン・スクエア・ガーデンの地下にある。長いトンネルでハドソン川の下を抜け、外に出ると、そこはもうNJ州である。さすがに”ガーデン・ステート”と呼ばれるだけあって園芸農業地帯を走る。途中の大きな街は、なんといってもPA州フィラデルフィア。といっても、家や工場が見え始めペイントの落書きが目立ってきたと思ったら、フィラデルフィアだった。今日見たYouTubeで青年が言っているように、田舎から急に街が出現するのである。(笑)

今回のYouTubeでは終点がロスのユニオンステーション(画像参照)だったが、私は、LAX(ロサンゼルス国際空港)から地下鉄を乗り継いで、ここからサンディエゴに向かった。発車合図どころか、そもそも何番線から出発するのかが、直前にならないとわからないのが、もっと恐ろしかった。結局、出発前に声をかけたサンディエゴに行くというおばさんの指示で走ることになった。(笑)悪いことばかりではなく、このアムトラックは、二階建てで、しかも太平洋岸をひた走る。極めて風光明媚であった。

今年の夏は、いろいろあって何処にも行っていない。久しぶりにアメリカの旅の感覚を思い出させてもらえたのであった。

2024年8月11日日曜日

トルーマンのイスラエル承認

https://www.istockphoto.com/jp/
 F・ルーズベルトの生涯については、大森実の本などで詳しく読んだが、(大統領史上初の)3選後、死去した彼の職を継いだ副大統領トルーマン(画像参照:20¢切手)については、あまり詳しくない。日本にとっては、スターリン、チャーチルに舐められて原爆を落とす決断をした男であるわけだが、そのトルーマンが、イスラエルが独立宣言をした「11分後」に国家承認した話が、「聖書の同盟」(船津靖/KAWADE夢新書)に出てくる。

トルーマンは、ミズーリ州出身・高卒の庶民派で、子供の頃は長老派の日曜学校、就労したカンザスシティではバプティストの教会に移っている。小学校に入る前に聖書を2度読んだというほどの読書家である。聖書の預言を信ずる保守的なキリスト教シオニストではなかったが、聖書に通じたバプティストとして、聖地にユダヤ教国家樹立というロマンに惹かれる大衆の心情を理解できる男だった。

当時のマーシャル国務長官や中東専門家は、イスラエル承認に反対で翻意を迫るのだが、側近の進言を退けた。その理由を著者は、①(前述の)幼少期からの聖書・聖地への強い思い入れ、庶民的なバプティスト信仰。②ユダヤ難民への同情、労組活動家の多いシオニストへの親近感、シオニストをアメリカ建国史の開拓者に重ねて支持する民主党内リベラル派への配慮、③ユダヤ系大富豪からの選挙資金、在米ユダヤ人団体からの政治的圧力、ユダヤ人の友人の影響などを挙げている。この3要因は、歴代大統領がイスラエルを重視する理由を概ね説明し、両国の特別な関係「聖書の同盟」の基盤であるとしている。

①については、このところブログで記してきた「アブラハム契約」「黙示思想」と大きく関連している。②については、大戦時アメリカは、(前述のセントルイス号のように移民を受け入れなかった事実から)ユダヤ人を見殺しにしたという意識があること。民主党の基盤として労働者階級の支持を受けていたこと。アメリカ建国史とは、ピグリムファーザーズの神話のように迫害を逃れ、聖地を建設した開拓史であることが、イスラエル建国と重ねられるわけだ。ここが重要だと私は思う。

…イスラエルもアメリカも、”民なき土地”に、迫害から逃れ聖地を建設したというのは、極めて欺瞞である。イスラエルには、パレスチナ=アラブ人が、アメリカ新大陸には、ネイティブ・アメリカンが定住していた。彼らの存在は、イエスの説く隣人愛の範疇にはないわけで、ブディストの私としては、この辺の一神教的な神の業である、と済ましてしまうのは、理解不能である。

また、独立戦争時、まずは委任統治をしていたイギリスと戦ったユダヤ人に、アメリカ人は独立戦争を重ね合わせ、イスラエルに親近感をもったとされている。(こうしてみるとアメリカ人は実に単純だと思う。)さてさて、トルーマンは、後に大統領をやめてから、「私はキュロス王。私はキュロス王」とNYのユダヤ教の神学校での講演で誇らしげに口走っている。自分をバビロン捕囚を解き、聖地帰還と神殿再建を許した古代ペルシャ王に擬えたのである。

…やはり、このトルーマンという男、私は好きにはなれない。

土地なき民に、民なき土地を

https://www.gettyimages.co.jp/
「聖書の同盟」(船津靖/KAWADE夢新書)には、シオニズムについて詳しく書かれている。これが実に興味深い。シオニズムといえば、ヘルツルだが、彼はユダヤ国家の領土として、パレスチナに固執しておらず、シナイ半島や南米、ウガンダなどを挙げていた。聖公会のウィーン大使館付神父のウィリアム・ヘクラ―は、宗教に関心がなかったヘルツルを訪問し、パレスチナの地理や考古学、失われた「契約の箱」(十戒の石版が納められた箱。)のロマンを教え、パレスチナに影響力を持つドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世との会見を実現させている。ヘルツル後のベングリオン(初代首相)ら主流派は、”聖地のユダヤ国家再建”を悲願として掲げ、世界各地に離散するユダヤ人の魂を揺さぶる戦略を立てたわけだ。

本日のタイトル「土地なき民に、民なき土地を」は、そのキャッチフレーズなのだが、これの元を考えたのは、イギリスのシャフツベリー伯(=アントニー・アシュレークーパー:画像参照)である。前述の終末論に基づきキリスト教徒はイエス再臨の舞台を整えるために聖地奪還を支援しなければならないと考えた。ユダヤ人シオニストが台頭する以前の、少なくとも60年前から始まったキリスト教シオニズムである。彼は親族のバルマーストン外相に働きかけ、1838年エルサレム(当時はオスマン帝国下)に英領事館を開設している。この19世紀のイギリスのキリスト教シオニストは、聖書預言に夢中で、アラブ人の姿は眼に入らず、アラブ人キリスト教徒の存在にも思いが至っていない。それをこのキャッチフレーズが見事に物語っている。

イギリスのシオニズムといえば、最も有名なのは、1917年のバルフォア宣言であるが、バルフォア外相も熱心なキリスト教シオニストで、宣言に合意したウィルソン大統領も「牧師の息子の私がユダヤ人の聖地回復を手助けできるなら」と語るキリスト教シオニストであった。この前年ハリソン大統領(共和党)にパレスチナに入植するユダヤ人支援を求める嘆願書を提出したブッラクストーンの賛同者(413人)には、当時の最高裁長官、ジョン・ロックフェラー、JPモルガンらの名もあり、キリスト教シオニズムが神学者内の一潮流ではなく政財界にも広がっていることがわかる。キリスト教シオニズムは、アメリカにも広がっていったのである。

しかし一方で、アメリカには反ユダヤ主義が根強く、ヒトラーの台頭で難民化し、アメリカを目指したユダヤ人を乗せたハンブルグ港発のセントルイス号は、リベラル派のF・ルーズベルトの下で追い返され、937人中254人がホロコーストの犠牲となっている。当時の政府首脳はホロコーストを認識していたにもかかわらずである。またユダヤ系のニューヨーク・タイムズもホロコーストを認識しつつも黙殺した。在アメリカのユダヤ人エリートは、シオニストと対立関係(ドイツ系のエリートvsロシアのボグロムや東欧の貧民層のシオニストという構図)にあったのである。…つづく。

2024年8月10日土曜日

ダニエル書とヨハネの黙示録

https://keroyon0852.blog.fc2.com/blog-entry-449.html
マルコの福音書の冒頭のイエスの言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」である。”時は満ち”とは、終末が訪れ近いということで、黙示思想はキリスト教徒にとって核心である、と「聖書の同盟」(船津靖/KAWADE夢新書)には記されている。

旧約聖書の黙示思想の代表は「ダニエル書」、新約聖書では、ヨハネの黙示録である。かの万有引力のニュートンが「ダニエル書とヨハネの黙示録の預言に関する考察」を書いている、とあった。黙示思想は西洋思想全体においても重要な問題である。さて、ヨハネの黙示録(本日の画像は、7人の天使がラッパを吹いているシーン)では、十字架の死から復活したイエスが世界の終末にエルサレムに再び現れ、神の千年王国が出現することになっている。

ハルマゲドン(ヘブライ語で終末:ヨハネの黙示録16章に「汚れた三つの霊は”ハルマゲドン”と呼ばれる所に王たちを集めた。」から来ている。ハルマゲドンという語が出てくるのはこの箇所のみだという。)とイエスの復活を信じる福音派にとっては、エレサレムは終末時に極めて重要な地であるわけだ。次にこういう黙示思想を前提として、ユダヤ教徒だけでなくキリスト教徒の「シオニズム」について記そうと思う。…つづく。

アブラハム契約と福音派

https://nemureru-sheep.com/about-the-abraham-contract/
イスラム諸国で、欧米企業の不買運動が起こっているという。マレーシアでは、Starbucksの売上が40%減らしい。マクドナルドやコカ・コーラなどにも大きな影響が出ているとか。これは、イスラエルを支援する欧米への反発である。ただ、実際には国内の企業がフランチャイズ経営しており、欧米の本社にはあまり効いていないらしい。https://www.youtube.com/watch?v=DgVGXKe8PgY&t=315s

なぜ欧米(特にアメリカ)がイスラエルを支援するのか、について「聖書の同盟」(船津靖/KAWADE夢新書)では、ユダヤ教の聖書(旧約)にある「アブラハム契約」(創世記)がまず重要だとしている。

「あなた(アブラハム)を祝福する人を私(神)は祝福し」とあり、ユダヤ人(アブラハムの子孫)を祝福するからアメリカは神に祝福されていると、福音派(アメリカの人口の25%を占めるプロテスタントの宗派というより運動といったほうがいい。カルヴァン派、ルター派、聖公会のローチャーチ、メソジスト、バプテストなど多くの宗派に存在する。)は読む。さらに、(アブラハムに与えられた約束の地についての記述で)「エジプトの川から、あの大河ユーフラテスに至るまでの」とあり、この範囲をユダヤ人が支配することが神の正義だと感じている。つまりガザ、ヨルダン川西岸、ゴラン高原、シナイ半島などの支配は正当化されるわけだ。福音派にとっては、アブラハム契約は、国際法より上位にあるのである。…つづく。

2024年8月9日金曜日

「聖書の同盟」を読む。

1週間前くらいから、妻の目の調子が悪くなって、近隣の眼科、さらに今日は総合病院での検査に同行してきた。総合病院は、待ち時間が長いので「聖書の同盟―アメリカはなぜユダヤ国家を支援するのか」(船津靖/KAWADE夢新書)を持参した。これは先日書店で購入した本のうちの1冊である。

このアメリカとイスラエルの関係については、様々な書籍でその理由が挙げられており、私も未知の領域ではないのだが、この本はまさに決定版と行って良い。著者は東大で社会学を修め共同通信のモスクワ・エルサレム・ロンドン特派員を経てニューヨーク支局長、編集・論説委員を務め、現在は大学で国際政治を教えている。この特派員時代に積んだ研鑽が半端ないといえる。旧約聖書のエキスをまとめたあとで、歴史的な事実を積み上げて、アメリカ、さらにイギリスも含めてその関係性を解き明かしていくのである。

タイトルの「聖書の同盟」は、まさにその骨子そのものである。以後、備忘録的にブログに書評を記していくつもりである。

ところで、妻は、かわいそうに左目だけで家事をこなしている。私もほんの少しだけれど、出来ること(ゴミ出しやベランダの野菜への水やりなど)は手伝っている。バイクや車を運転できない妻に代わって、買い物にも行ったりしているのであった。こういう時こそ、”夫婦の同盟”なのだ。(笑)

2024年8月8日木曜日

高校の先輩 憂歌団

https://www.sweetloveshower.com/
2014/report/2014/0831/5523.html
私は大阪人であるので、 70年代から80年代を中心に大阪で活躍したアーティストには特別の思い入れがある。何度かこのブログでも記してきたが、夫婦共々、上田正樹と有山じゅんじや加川良の大ファンであるのだが、バリバリのブルース、憂歌団も大好きである。(何度か生で木村充揮のLIVEを見た経験がある。)

先日、YouTubeで内田勘太郎を扱ったチャンネルを見た。憂歌団というと、”天使のダミ声”の木村充揮が有名だが、憂歌団はこの二人から始まった。なんとなく憂歌団が母校(大阪市立工芸高校)と関わりがあることは在学当時から知っていたが、この二人は、美術科の先輩であった。(私は、図案科で直の先輩ではないが…。)私が中一である1970年の母校の文化祭が憂歌団のスタートだというから、在学時期は重なってはいないものの、かなり近しい先輩にあたる。内田勘太郎はともかく、木村充揮が美術科、というのには違和感を感じてしまう。(笑)母校では、三学期に工芸展というイベントがあり、作品を展示するのだが、木村充揮は、どんな作品(油彩が多い)を描いていたのだろう。実に興味深い。https://www.youtube.com/watch?v=CFZfrKt-xGQ

さて、憂歌団の曲では、シカゴ・バウンドが最も好きな曲である。これぞブルースという凄みのある曲で、私は実際にシカゴに行った時、この曲の”匂い”を感じたものだ。シカゴは、大阪の姉妹都市であり、テネシー州のメンフィスから来た(おそらく)ブラック・ピープルの悲哀を見事に歌いあげている。ちなみに、メンフィスに帰るには長距離バスの方が安いし便も多いはずだ。ただ歌としては、”汽車に乗って”のほうが良いと思うが…。(笑)内田勘太郎のボトルネックの技が冴えわたる素敵な曲である。https://www.youtube.com/watch?v=Quo5PGtx5S0

ザ・エン歌も大好きな名曲である。ブルースなのに日本の演歌だと言われたら、それで十分通用する曲である。https://www.youtube.com/watch?v=EJBGCenXNgo

大阪ビッグ・リバーブルースも名曲。大阪を歌った曲は数多いけれど、上田正樹の”悲しい色やね”に匹敵するのは、この実に悲しい曲だろうと思う。https://www.youtube.com/watch?v=VjGafZoKXbY

その他にも、おそうじオバチャン、パチンコ~ランランブルースなどの激しめの楽しめる曲もある。木村充揮のステージは、独特の雰囲気があって楽しい。LIVE版にある”パチンコ組曲”などは、陽水やグランド・ファンクなんかのメロディーも登場してまさに木村充揮の真骨頂だといえる。

…ところで、このブログを推敲中に、日向灘の地震(M6弱)があって、津波警報も出ている。三崎は大丈夫だろうか。今のところ宇和海では、20cmほどらしいが…。

2024年8月7日水曜日

姓名判断の話

関根勤氏のYouTubeチャンネルを見ていて、娘の麻里さんが、後々いじめられないようにと姓名判断の本を7冊も買って研究したという話が面白かった。関根勤氏は、姓名判断を全く信じていないのたが、危機管理としてのスタンスだったという。たしかに高校時代、姓名判断をもとにクラスメート間の話題が盛り上がったことがあった。友人Yなどは、奇人変人運だと言われていた。(たしかに当たっていたように思うが…。)昭和の時代、そういうことがたしかにあったのである。結局、麻里さん本人は姓名判断でいじられるような機会もなく無駄骨だったというオチがついたのだが…。

私の名前は、父親が姓名判断で、総画数で「頭領運」をもつようにと命名をしたと聞いている。たしかに、頭領運はあるように思うが、比較的小規模組織の頭領運(小隊を束ねる軍曹くらい)の頭領運だと、後に読んだ姓名判断の本に書かれてあった。天下を取るような頭領運ではなかった。だから、クラスの担任や学年主任はともかく、校長などの管理職には結局向いていなかったし、目指す気もなかった。(笑)基本的に姓名判断は当たる、と私は思っている。

息子の命名については、姓名判断で命名した。特に重要なのは、総画数で、”金に困らない金銭運”にした。たしかに息子は、学生時代の一時期を除き、何かと金に困らないようになっている。(笑)反対に、妻はそもそも息子と同じ総画数だったのだが、結婚してその金銭運を失ってしまったようだ。(笑)

2024年8月6日火曜日

M・ウェーバー『プロ倫』確認

今夏の教材研究もかなり進んだ。世界価値観調査をもとに授業を進めるにあたって、キリスト教世界の相違を語らねばならない。ここで、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(大学の教育現場では『プロ倫』と略されるそうだ。)の内容を確認しておこうと思う。ここで言われる”プロテスタンティズム”は、カルヴァンの神学である。ルター派や聖公会(ハイ・チャーチ)は含まれない。

オランダ、イギリス、アメリカといったカルヴァン派の影響が強い地域(オランダのカルヴァン派は、ゴイセン。イギリスでは、産業革命の震源地スコットランドのプレスビテリアン。フランスのユグノーもイギリスに多く移民した。イングランドではピューリタン。アメリカは、最初は聖公会(ハイ・チャーチ)の貴族が主だったが、ピューリタンやプレスビテリアン、ゴイセンらが多く移民して発展したわけで、聖公会(のロー・チャーチ)から生まれた分派も数多い。)では、”非合理性をもった合理主義”によって、近代資本主義が成立したが、スペインやイタリアなどのカトリック圏やドイツ(大まかに北部はルター派/南部はカトリック)では発達が遅れた、というカルヴァン派の信仰と近代資本主義の因果関係を論じたのが、『プロ倫』の骨子である。

ここで言われる”非合理性をもった合理主義”とは、予定説の逆因果である。神に救われることが決められている人間ならば(因)、神の御心にかなうことを行う(果)という論理を意味する。(普通の因果なら、善い行いをしたので、神に座れ天国に行けるという因果論となる。)そこで、彼らは、一切の欲望や贅沢・浪費を禁じ、エネルギーを信仰と労働(神が定めた職業)に捧げたというもの。

…神の絶対主義をとるカルヴァン派は、これまでの今夏の学びの中で、キリスト教綱要・第一篇で、救いを選ぶか選ばないかが意思の自由に残されているのみ、と理解するし、キリスト教綱要・第三篇で、悔い改めとは、”全人的な方向転換”、”生まれ変わり”、すなわち「再生」であるとしている。かなり強烈な教義である。

この禁欲的な姿勢は、利潤の肯定と利潤の追求の正当化を生んだと、ウェーバーは結論づける。最も禁欲的で金儲けに否定的なカルヴァン派だが、神の御心にそって勤勉に働き、安価な製品やサービスを隣人愛として提供、その結果として利潤を得ることが、結局救済の証と捉えられたのである。まさに”非合理性をもった合理主義”といえよう。しかも蓄えられた金は浪費されることなく蓄積され(=資本蓄積)、さらなる利潤獲得のため投資されていくことになった。

…私などは、カルヴァン派の布教・拡大が個人単位によるものであったことも重要だと思っている。カトリックや正教会はもちろん、伝統的な教会によって維持されており、ルター派も反カトリック(というよりは反ハプスブルグ家)の諸侯の改宗により支配下の住民も改宗することになったし、聖公会も王の意思で改宗させられたといってよい。個人として自ら改宗を受け入れたのはカルヴァン派系のみである。この個人に立脚したスタンスは、資本主義や民主主義の基盤になるものであると思っている。このことは、同時に、教理や教会運営の捉え方から、様々な分派を生む要素にもなっている。特に、教会運営の面では、長老派と会衆派、教理面では、聖公会を源とするメソジスト、バプティストなど、数多くの分派が生まれているわけだ。

ちなみに、この信仰が薄れ(=世俗化)、宗教としてではなく、利潤追求が自己目的化していったことを、ウェーバーは、危機的状況だとして批判している。

…ちょっと蛇足。何の本だったか記憶が薄れているのだが、(イギリスなどに比べ)アメリカは信仰心の強い国である。だが、世代ごとに地位や財産が上昇するに連れ改宗する人々もいるらしい。すなわち祖父母の代はバプティスト、父母の代はメソジスト、自分の代は聖公会(教会が豪華で見栄え重視)という風にである。これもまたアメリカの宗教の実相であると思う。

2024年8月5日月曜日

パリ五輪の”無課金おじさん”

https://www.blogger.com/blog/
post/edit/910575509843965239/
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トルコの射撃選手が、他国の選手が重装備(というか様々なアイテムを装備している)なのに対し、耳栓のみ、Tシャツで普通のメガネ、左手をポケットに入れたまま正確な射撃を披露し、団体(女子選手との混合)で銀メダルを取った。これがネットで話題となり、日本の様々な人がイラスト化して世界中で話題になっている。私などは”無課金”というネーミングを最初に考えた人が凄いと思う。流行語大賞ものである。

御本人は、最もリラックスできるので、ああいうスタイルのようで、資金不足で重装備ができなかったわけではないようで、”無課金”という語彙には少し不満もあるようだ。だが、日本的な感覚では、無課金という語彙は、無駄を排除した”侘び寂び”に通じるものである。シンプル・イズ・ベストが、日本の美学のひとつである。(だから、日光東照宮などは人気がない。笑)よって、日本人の美意識の琴線に触れたのだと思う。”無課金”というネーミングは、悪意ではなく、リスペクトである。誰か、それを御本人に伝えて欲しいな。

2024年8月4日日曜日

キリスト教綱要 第三篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評、第三篇。できる限り、高校の倫理の授業で語れるような内容で記していきたいと思う。第三篇は本書では、「キリストとの交わり」となっているが、「聖霊論」と見る向きもある。著者によれば、聖書に聖霊について述べられている箇所は少ないので、カルヴァンも控えめにしていると考えている。

聖霊の働きのうち、啓示する働きは基本的に終了している。旧約のもとでは聖霊が(各預言者に)託宣を語らせているが、それは基本的に終わり、キリストが預言の終わりとなった。それ以後は、ヨハネの福音書(14-26)にあるように、聖書のキリストによって語られた言葉を「想い起こさせる」という働きとなった。神の恵みは、その体をなすキリストの業と言葉に宿っており、それを現実化するのが聖霊の働きである、というのがカルヴァンの聖霊論である。

…カルヴァンの聖霊は、カトリックのように、神からもキリストからも発せられると判断するのが良いのか、正教会のように神のみと判断すればよいのか?私は正教会の方に軍配を挙げたいのだが…。

信仰について、「悔い改め」は、イエスの教の中心にあったが、カトリックでは”サクラメントとしての悔悛”と”良き行い=教会への代価”にすり替わってしまい(教会法で規定)、ルター派も95か条の提題で、教会絵の代価を批判したものの、悔い改めに関しての理解は、同様のところに立っていた。カルヴァンは、これらの安易な悔い改めではなく、”全人的な方向転換”、”生まれ変わり”、すなわち「再生」であるとしている。

…ここで、私は橋本大三郎の「アメリカの教会」に出てきた「回心」(23年5月14日付ブログ参照)を想起せざるを得ない。万人司祭制のカルヴァン派は普通、長老派(牧師と信仰経験豊かな長老が教会を運営する故)と呼ばれるが、マサチューセッツ植民地のカルヴァン派は会衆派(長老制ではなく、信徒で教会を運営する)となり、「回心」の重要度が増していく話である。

キリスト者のあるべき姿について、聖化から義認(キリストを己の内に受け入れ、キリストの義が己を覆い、キリストの義が己のものとなること)へと信仰を通して進んでいくこととされる。

かのカルヴァン派の特色といわれる予定説について。これは彼のオリジナルではなく、当時の真面目な伸学者は重要事項だと考えており、これを聖書に教えられている内容を論じ詰め、救いの確かさのために、人間の決定と努力が徹底的に低められて、神の意志の絶対性を確立したのがカルヴァンだったといえると著者は述べている。

…予定説がカルヴァン・オリジナルでなかったことは、実に意外である。さて、第四篇は教会(運営)のことで占められている。私の研鑽としての「キリスト教綱要」はこのあたりで、筆を(キ―ボードを)置こうかと思う次第。正直、かなり難解であった。今思うのは、早く学院の図書館で、カトリックのカテキズムを見てみたいと思っている。

2024年8月3日土曜日

キリスト教綱要 第二篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評、第二篇である。神学生向けで、かなり難解であるので、またまた高校生に倫理の授業として教える感覚で記していこうと思う。

著者は、最初律法のもとに父祖たち(アブラハムやモーセ等)に現され、ついで福音において私たちに現された認識(すなわち三位一体の「神」)がキリスト教本来の神の認識であることを強調していると書いている。キリスト(=救世主)認識は、受肉(人間となって歴史に登場したナザレのイエス)に限定してはならない、キリストについての考察は、「律法において約束された」ところから始まり、約束の成就(=律法の成就)としての来臨、さらに終末における第二の来臨まで及ぶものではならないと語っている。前述したように、第一篇の福音の話から、第二篇は律法、という順序になっている。

カルヴァンの言う律法は、「全ての信仰の父」と呼ぶアブラハムとの契約に始まり、モーセを介して400年後に律法ができたが、これは契約更新のためであるとする。(アダムやノアはほんの火花のようなものであるとする。)ただ律法は実物に対する影、本体に対する印(しるし)であり、救いの確信の根拠とするには程遠いと言う。また”キリストは律法においてどのように現されたか?”が問題となるが、仲保者なしでは神は恵みある神として示されないが、律法の祭祀規定が和解者としての神を示しており、仲保者の必要性がはっきりと示されている。受肉して現れたキリストについての予告は、律法と予言書に言葉として確固としてあり、約束を成就したキリストについての認識は、使徒の証言により確立しうる、と語られていく。つまり、律法は、主として受肉したイエスの出現のためのものであるわけだ。

原罪について、カルヴァンはルター派の「人間は罪の塊である」という一刀両断的な認識も、カトリックの自力救済のかすかな可能性も取らない。前述の”人間の創造”(昨日のブログ参照)のとおりである。

またルター派に比べて、カルヴァンは律法を高く評価している。キリスト(=救世主)の存在は律法のもとで予め知らされ、福音において現れた。ヨハネの福音書(8-56)に「アブラハムは私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。」とある。旧約がキリストに大きく関わっている。ヨハネの福音書の冒頭「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にあった。」は、旧約の原型で、ユダヤ教の知恵は言葉であるという解釈はキリスト教に引き継がれている。ルター派は、律法を幼児を教育する「養育係」とするが、律法の一端である、原罪に向かう場合もあるからで、カルヴァンの言う律法の本質は著者マタイ福音書の山上の説教でモーセの十戒を正しく解き明かしたこと、であるとしている。

このように、ルター派の律法理解は、律法と福音を対立させる傾向があると著者は批判する。律法と福音は同一の神からのものであるし、本質的に同じであるし、キリストを示す同一目的による共通性、連続性がある。キリストが律法の終わりとなったことについて、マタイの福音書(5-17)に「律法を廃止するために来たのではない。」という啓示は、律法の役目(目的・目標としての務め)は終わったという意味で、罪に定める機能は終わったということだと記されている。

ここから先の律法の三用益、カルゲドン・キリスト論、キリストの預言職・王の機能・祭司職、昇天・再臨の項は、何度も読みかえしたが、神学生向けでさらに難解であるので割愛したい。ブティストの私にはさすがに理解しがたいところにあった…。

2024年8月2日金曜日

キリスト教綱要 第一篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評も、いよいよ「キリスト教綱要」第一篇である。カテキズムの導入部で、教理ではないがカルヴァンの思想が結晶していると著者は言う。導入部は人を惹きつけて探求の軌道に乗せ、関心をもって読ませるものであるから、普遍性をもった哲学思想を用いることになる。

カルヴァンは、「汝自身を知れ」というソクラテス=プラトンの系列でこれを書いていると著者は述べ、神認識と自己認識については、ローマ時代のキケロの「神々の性質について」を材料として、”自然的に持っている宗教心を肯定的に評価すべきか?不十分ながら、真理をめざしているものとして諸宗教を位置づけるべきか?”との問に「否」としている。自然的宗教心が必ず偶像宗教に向いてしまう点を指摘しているのである。さらに、カルヴァンは、①全ての人には生来、神認識が刻み込まれている、したがって神を認めないことについては言い逃れができない。②神認識において決定的なものは、キリストにおいて神を知るということだ、という二点を主張している。その後、聖書の正典・外典の内容に移るが割愛。…私が興味深かったのは次の”神存在”である。

カルヴァンは、中世の存在論的に証明される神を否定し、生ける神を概念化することに反対するとともに、聖書の神を視覚に訴えるやり方(前述のカトリックの十戒から偶像禁止を削除したこと。正教会のイコンも含めて)を強く批判した。この第二戒の回復にルター派はあまり熱心ではなかったがゆえに、またこれを言い出したヒューマニスト出身の改革者が少なかったゆえに、ある程度偶像的また視覚的要素が残ったわけだ。著者は、偶像廃止の意味は、画像を拝んだり直感したりするのではなく、言葉を聞くこと、言葉を守ること、また言葉をもって応答することであり、宗教改革以前は教会によって失われていたとしている。また中世末期の神秘主義は言葉を排除する」ので、非カルヴァン的であるとしている。(本日の画像は、世界最高峰の偶像中の偶像/ミケランジェロのピエタ。)

”三位一体論”については、独自の理論をカルヴァンは付け加えていない。最初のカテキズム「信仰の手引き」では、三位一体論に触れておらず、攻撃を受けた。聖書のみをキーワードにするカルヴァンにとっては、聖書にない三位一体という用語を使う必要はなかったのである。ただ、その語彙で表される事柄は聖書的であるというスタンスである。

”天使”については多くのページが割かれている。これはカトリックの仲保としての聖母マリアや、諸聖人、天使を大量生産したカトリックへの反駁で、天使の存在を完全否定はしていないが、人間の世界の上に天使を据える存在感を否定している。

”人間の創造”については、カルヴァンは認識の正しい順序を説いている。①神に創造されたこと。神のよしとされるものとして創造されたこと。②創造された地位から落ちたこと。”自由意志”については、救いを選ぶか選ばないかが意思の自由に残されていると理解するのがカルヴァンの自由意志論である。第一篇の最後に”摂理論”が丁寧に示されている。カルヴァンの摂理論は、一般論ではなく、個別的であること。これにに関心を喚起していることを理解するのがポイントだと著者は述べている。

…カルヴァンの思想は、私から見て、快刀乱麻という感じがする。聖書をもとにして、あやふやなところがほとんどない。

2024年8月1日木曜日

カルヴァンのカテキズム

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の第3講、「キリスト教綱要の体系化」について本日は記そうと思う。タイトルの「カテキズム」とは、教理の要約を意味する語で、著者の言を借りれば、聖書という山を登るための地図、信ずべき教理の初歩を教える教材であるといえる。宗教改革にあたり改革者は、十戒、使徒信条、主の祈りという最重要要素と聖礼典を加え文章化した。『キリスト教綱要』は、カルヴァンにとって三冊目のカテキズムである。カテキズムは、信仰問答や教理問答と訳されることもあるのだが、問答形式のものが多い故である。カルヴァンも、最初に書いた「信仰の手引き」の後「ジュネーヴ教会信仰問答」という問答形式のものを書いている。ちなみに、昨日、ルター派の十戒がプロテスタント諸派で唯一カトリックと同じであることを記したが、これはルター派のカテキズムによるものである。

ちなみに、カテキズムは、中山訳以来「綱要」と訳されたが、本来は教理教育、その教程という意味であるらしく、もう変更しようがないと著者は不満げである。この初歩的教程の終わった者は、信仰告白者として、聖なる晩餐の共同体の中に受け入れられる、この基本的な確認が、カテキズム教育の意味である。宗教改革が始めたカテキズム教育の成果を受けて、カトリックでも「ドチリナキリシタン:公教要理」というカテキズムを作成し現在に至っている。(2学期が始まったら学院の図書館に探しに行こうと思う。)

ルター派のカテキズムとカルヴァンのカテキズムの対比が面白い。最重要要素の十戒(律法)から使徒信条(福音)へという順序のルター(の特質的なもの)と、初版では同じ順序である。カルヴァンはルターを尊敬していたことは確かだが、神学的に距離を感じていたし、文化地盤も異なる。第二のカテキズム(ジュネーヴ教会信仰問答)では、福音、律法の順序になっている。…ブディストの私から見ても、実に大きな違いのように感じる。

カルヴァンは、「キリスト教的自由」について初版から挿入している。このことは、カトリックの教会法が人々の良心をも拘束していたことと、急進的宗教改革の自由と秩序理解を批判する必要があったことが挙げられる。ところで、ルターも「アウグスブルグ信仰告白」や「キリスト者の自由」を書いて論じている。カルヴァンは、ルターが明晰さを欠き、自由を内面化しているのに対し、自由を論じるだけでなく、自由を奪う仕組みの元となる教会的伝統、政治的統治まで精緻に論じている。…このあたりの両者の相違も実に面白い。