2024年8月4日日曜日

キリスト教綱要 第三篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評、第三篇。できる限り、高校の倫理の授業で語れるような内容で記していきたいと思う。第三篇は本書では、「キリストとの交わり」となっているが、「聖霊論」と見る向きもある。著者によれば、聖書に聖霊について述べられている箇所は少ないので、カルヴァンも控えめにしていると考えている。

聖霊の働きのうち、啓示する働きは基本的に終了している。旧約のもとでは聖霊が(各預言者に)託宣を語らせているが、それは基本的に終わり、キリストが預言の終わりとなった。それ以後は、ヨハネの福音書(14-26)にあるように、聖書のキリストによって語られた言葉を「想い起こさせる」という働きとなった。神の恵みは、その体をなすキリストの業と言葉に宿っており、それを現実化するのが聖霊の働きである、というのがカルヴァンの聖霊論である。

…カルヴァンの聖霊は、カトリックのように、神からもキリストからも発せられると判断するのが良いのか、正教会のように神のみと判断すればよいのか?私は正教会の方に軍配を挙げたいのだが…。

信仰について、「悔い改め」は、イエスの教の中心にあったが、カトリックでは”サクラメントとしての悔悛”と”良き行い=教会への代価”にすり替わってしまい(教会法で規定)、ルター派も95か条の提題で、教会絵の代価を批判したものの、悔い改めに関しての理解は、同様のところに立っていた。カルヴァンは、これらの安易な悔い改めではなく、”全人的な方向転換”、”生まれ変わり”、すなわち「再生」であるとしている。

…ここで、私は橋本大三郎の「アメリカの教会」に出てきた「回心」(23年5月14日付ブログ参照)を想起せざるを得ない。万人司祭制のカルヴァン派は普通、長老派(牧師と信仰経験豊かな長老が教会を運営する故)と呼ばれるが、マサチューセッツ植民地のカルヴァン派は会衆派(長老制ではなく、信徒で教会を運営する)となり、「回心」の重要度が増していく話である。

キリスト者のあるべき姿について、聖化から義認(キリストを己の内に受け入れ、キリストの義が己を覆い、キリストの義が己のものとなること)へと信仰を通して進んでいくこととされる。

かのカルヴァン派の特色といわれる予定説について。これは彼のオリジナルではなく、当時の真面目な伸学者は重要事項だと考えており、これを聖書に教えられている内容を論じ詰め、救いの確かさのために、人間の決定と努力が徹底的に低められて、神の意志の絶対性を確立したのがカルヴァンだったといえると著者は述べている。

…予定説がカルヴァン・オリジナルでなかったことは、実に意外である。さて、第四篇は教会(運営)のことで占められている。私の研鑽としての「キリスト教綱要」はこのあたりで、筆を(キ―ボードを)置こうかと思う次第。正直、かなり難解であった。今思うのは、早く学院の図書館で、カトリックのカテキズムを見てみたいと思っている。

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