2024年8月2日金曜日

キリスト教綱要 第一篇

「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」(渡辺信夫/新教出版社)の書評も、いよいよ「キリスト教綱要」第一篇である。カテキズムの導入部で、教理ではないがカルヴァンの思想が結晶していると著者は言う。導入部は人を惹きつけて探求の軌道に乗せ、関心をもって読ませるものであるから、普遍性をもった哲学思想を用いることになる。

カルヴァンは、「汝自身を知れ」というソクラテス=プラトンの系列でこれを書いていると著者は述べ、神認識と自己認識については、ローマ時代のキケロの「神々の性質について」を材料として、”自然的に持っている宗教心を肯定的に評価すべきか?不十分ながら、真理をめざしているものとして諸宗教を位置づけるべきか?”との問に「否」としている。自然的宗教心が必ず偶像宗教に向いてしまう点を指摘しているのである。さらに、カルヴァンは、①全ての人には生来、神認識が刻み込まれている、したがって神を認めないことについては言い逃れができない。②神認識において決定的なものは、キリストにおいて神を知るということだ、という二点を主張している。その後、聖書の正典・外典の内容に移るが割愛。…私が興味深かったのは次の”神存在”である。

カルヴァンは、中世の存在論的に証明される神を否定し、生ける神を概念化することに反対するとともに、聖書の神を視覚に訴えるやり方(前述のカトリックの十戒から偶像禁止を削除したこと。正教会のイコンも含めて)を強く批判した。この第二戒の回復にルター派はあまり熱心ではなかったがゆえに、またこれを言い出したヒューマニスト出身の改革者が少なかったゆえに、ある程度偶像的また視覚的要素が残ったわけだ。著者は、偶像廃止の意味は、画像を拝んだり直感したりするのではなく、言葉を聞くこと、言葉を守ること、また言葉をもって応答することであり、宗教改革以前は教会によって失われていたとしている。また中世末期の神秘主義は言葉を排除する」ので、非カルヴァン的であるとしている。(本日の画像は、世界最高峰の偶像中の偶像/ミケランジェロのピエタ。)

”三位一体論”については、独自の理論をカルヴァンは付け加えていない。最初のカテキズム「信仰の手引き」では、三位一体論に触れておらず、攻撃を受けた。聖書のみをキーワードにするカルヴァンにとっては、聖書にない三位一体という用語を使う必要はなかったのである。ただ、その語彙で表される事柄は聖書的であるというスタンスである。

”天使”については多くのページが割かれている。これはカトリックの仲保としての聖母マリアや、諸聖人、天使を大量生産したカトリックへの反駁で、天使の存在を完全否定はしていないが、人間の世界の上に天使を据える存在感を否定している。

”人間の創造”については、カルヴァンは認識の正しい順序を説いている。①神に創造されたこと。神のよしとされるものとして創造されたこと。②創造された地位から落ちたこと。”自由意志”については、救いを選ぶか選ばないかが意思の自由に残されていると理解するのがカルヴァンの自由意志論である。第一篇の最後に”摂理論”が丁寧に示されている。カルヴァンの摂理論は、一般論ではなく、個別的であること。これにに関心を喚起していることを理解するのがポイントだと著者は述べている。

…カルヴァンの思想は、私から見て、快刀乱麻という感じがする。聖書をもとにして、あやふやなところがほとんどない。

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