2024年7月7日日曜日

ルター派は最もカトリック的?

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「ルターはマリアを崇敬していたか?」(澤田昭夫著/教文館)を一気に通勤時に読んでしまった。昨日宗教科の先生と、この本の内容についてすこし語り合う機会があって、プロテスタントの中ではルター派が最もカトリックに近い、という認識をもっておられた。

そもそもルターの宗教改革は、世界史などで過剰に捉えられすぎているきらいがあると私は思っている。ルターの贖罪状への批判が、ハプスブルグ家と北部ドイツ諸侯の政治的対立に利用されたというのが、実態ではないか。ルター本人はこんなことになるとは思っていなかったようだ。(ただし後世に大きな影響を与えたことはいがめないが…。)ルターは、信仰心の熱いカトリック司教であって、マリア信仰についても当初はかなり入れ込んでいたことが、この書では描かれている。様々な書簡やミサでの講義にもそれらが見受けられる。

ただ、マリア信仰が当時加熱して、神やイエスへの信仰の妨げとなっていたこともあり、ルターは「ある人々は、キリストを御父の右に座し、怒りに満ちた者と考え、そこでマリアにのがれるが、これは悪魔の業である。」また「キリストはむなしく香炉の煙の洞窟に座っている。」さらに「マリアは教皇制の中で偽神にされた。」と批判している。(誤解なきように記しておくが、このマリア崇拝の悪弊を批判したのは、ルターだけではない。)

高校の倫理の授業内容として教えるなら、ルターのマリア論は次のように要約できると思う。

ルターは、マリアをキリスト者の生活の模範として崇敬しており、神の恩寵の独立の根源として我々の慰めであってはならないが、マリアの信仰、謙虚、慎みという三の徳を備えた模範・原型としては慰めである、としていた。『信仰のみによって』をモットーとするルターは、マリアの『わざ』をまねびすることを勧める。「わざは救いに必要であるが、救いを生み出すことはない。けだし、信仰のみが生命を与える。」また「わざがなければ、信仰は失われている。果実が木の証明であるようなものである。」

ルターは、マリアの『わざ』を重視しつつも、その無原罪性と被昇天については否定している。「御母は崇敬されるべきであるが、御子はその数千倍も崇敬されるべきである。」(ここでも、カトリックから異端扱いされるようなことは述べていない。)

学院の職員室に、マリア像と十字架のイエス像があるのだが、前述の宗教科の先生が「お祈りの時間に、どちらに向かって手を合わせるか?私は十字架のイエス像です。」とはっきり言われていた。先生はもちろんバリバリのカトリック信徒である。先生が、ルター派はカトリックに一番近いと言われていた意味が少しだけわかったような気がした。教皇制と教会組織のカトリックから、(神聖ローマ帝国時の政治的思惑で、はからずも分派した)聖書中心に移行したカトリックという感じなのか、と思った次第。

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