2024年7月18日木曜日

英国国教会 鳥瞰的考察5

https://ameblo.jp/rumikoflowers
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「鳥瞰するキリスト教の歴史ー宗派・教派の違いがわかるー」(岩城聰/ペレ出版)による聖公会(=英国国教会・アングリカン)の考察の第5回目。中道を貫いたエリザベス1世の後半は、ピューリタン対国教会という姿をとる。ピューリタン(清教徒)とは、本来はプロテスタント急進派に対する蔑称で、国教会内の反体制派、長老派、会衆派などの呼称として用いられ、やがてカルヴァン派である長老派・会衆派(教会の運営面での相違)だけでなく、バプティストやクェーカーなどの分離主義者(国教会からの分離を目指す)も含めて、国教会に反対するプロテスタント全般に用いられるようになった。

1570年に、トマス・カーライトが「使徒行伝講義」で主教制を否定、長老主義的立場を唱え、著者不明の「議会への勧告」では、主教制の否定、陪餐時の跪拝(ひざまずくこと)の禁止、結婚式時の指輪の使用などを非聖書的であると廃止を呼びかけたり、教区会制度の枠組みの中で長老制の教会制度(クラシス)を確立しようとしたり、聖書釈義集会という情宣活動の場を生み出したりした。エリザベス1世は、この聖書釈義集会の禁止、説教者の削減を命じた。しかし、改革派に共感していたカンタベリー大主教(画像はカンタベリー大聖堂のステンドガラス:カトリック的である。)・グリンダルはこれを拒否、職務停止される。1589年には、ロバート・ブラウンが、国家との一切の絆を断ち切った宗教改革を主張するのだが、同年、リチャード・パンクロフト(後のカンタベリー大主教)が長老主義批判・主教制擁護の論陣を貼る。そんな中、1603年にエリザベス1世は逝去。王位継承権を持っていたスコットランドのスチュアート家のジェームズ1世が王位を継ぐことになる。
https://walk.happily.nagoya/early-modern-britain/james-i-vi_monarch-of-england-wales-sc
ジェームズ1世(画像左)は、スコットランドの長老派(プレスビテリアン)で育てられたものの、母(メアリー・スチュアート:1587年反逆罪でエリザベス1世によって処刑された。)はカトリックで、双方の影響を受けていた。とはいえ、国王になったジェームズ1世は、国教会とピューリタンの代表者会談を実現させたが、「主教なければ国王なし」という宣言、プロテスタントの失望を買い、対立はさらに深まった。ところで、ジェームズ1世は、1603年の即位後すぐに、欽定訳聖書の編纂を命じ、近代英語の形成に大きな影響を与えた。
このジェームズ1世とその息子のチャールズ1世(画像右)時代に、反ピューリタン政策を推し進めたのは、ウィリアム・ロードで、1628年ロンドン主教ならびにオックスフォード大学総長(カルヴァン派の影響が強かったが、それを払拭した。)となる。しかし、同年、かの「権利の請願」が議会に提出された。チャールズ1世は議会を解散し、ロードらの寵臣政治を進め、カンタベリー大主教となったロードは、1638年、スコットランドにも彼の政策を押し付けようとし反乱を招き敗北、議会が再開されると、ロードはロンドン塔に監禁され1640年処刑される。(ちなみに、これまでに登場したヘンリー8世時代のトマス・クランマー、トマス・クロムウェルなどもロンドン塔で処刑されている。これは、まさに一部で、長きにわたり、時の宗教情勢によって処刑された聖職者や信徒は膨大な数にのぼる。)ピューリタン革命によって、1645年チャールズ1世は処刑されるのだが、これは次回…。

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