2024年7月11日木曜日

ルターにおける”つまずきの石”

http://jun-gloriosa.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-f152.html
「ルターにおける聖書と神学」(上智大学キリスト教文化研究所編/リトン)の書評続編。鈴木浩氏の「ルターにおける”つまずきの石”と”神学的突破”」について。この”つまずきの石”とは、ヴィッテンベルク大学進学部での旧約の詩篇講義31編で大きくつまずいた事を意味する。理解不能に陥ってしまったテキストとは、ラテン語で"In iustitia tua libera me"(あたなの義によって私を開放してください。)という一文。

詩篇は、ヤハウェへの讃歌なのだが、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語などの訳があり、日本では漢訳からの引用もあるようで、この文言が詩篇31のどこにあるのか調べたがわからず、私自身がつまずいた。(笑)グレゴリオ聖歌にも挿入されているようだ。https://note.com/efi/n/nb1ef696f81ab

ルターは、この「神の義」の意味を徹底的に考察し、信仰義認論の神学を確立していくのだが、講演者の鈴木浩氏は、その前に自己の”つまずきの石”について語っており、そこが実に興味深い。

マルコ福音書(6章45-52節)でイエスが弟子たちを強いて船に乗せた話で、(イエスは湖を歩いて)「そばを通り過ぎようとされた」とある。(逆風で漕ぎ悩んでいる)弟子たちを助けに来たのに通り過ぎたことを不思議に感じた鈴木浩氏は、他の福音書を調べた。

ルカにはなく、マタイにもヨハネ(ヨハネにはあまりこういう物語の記述は少ない)にもあるが「通り過ぎようとされた」という記述がない。マルコが最も古いとされるので、他の福音書は全文を削除(ルカ)またはこの一文を削除(マタイとヨハネ)したのではないかと、新約の聖書学は専門ではないが、と前置きして鈴木浩氏は推測している。

しかし、旧約の列王記上(19章11節-12節)で(預言者)エリヤの前に神が出現する箇所を読んで驚いた。「主はそこを出て山の中で主の前に立ちなさいと言われた。見よ、その時主が通り過ぎて行かれた。」さらに出エジプト記で、モーセに対する神出現のシーンでは、「また言われた。あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。(中略)わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまでわたしの手であなたを覆う。(中略)あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」…マルコ福音書の湖上を歩き通り過ぎたイエスの行為は、まさに”神として”顕現したことを示していたわけである。

さて、本題に戻り「神の義」である。ルターは、神の義を善には善、悪には悪を報いるという能動的なものと考えていたが、コペルニクス的転回によって、憐れみ深い神が我々を信仰によって義としてくださるという受動的な捉え方をすることによって、神の義とは罪人を裁く義(正義)ではなく、神が信仰を通じて罪人に与えてくださる義であると確信した。これまで自らを罪人として人一倍苦しんできたルターは、神の義を最も甘美な言葉として受け止め、信仰義認論(聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ)の神学を打ち立てていくのである。

鈴木浩氏は、神は確かに十字架の上のイエスの姿に啓示されているが、そこにあるのはナザレ出身の大工の惨めな姿でしかない。人間の理性が考える神はそこを見ることができない。だからルターは”神は十字架の上に啓示されていると同時に隠されている”と言い、そこに見えるのは”神の背面、つまり背中”である、神は”通り過ぎて””背中しか”見せないのだと記している。なかなか興味深い指摘ではないか。

本日の画像は、ルターと関係が直接あるわけではないが、ドイツ・ベルリンにあるStolperstein=”つまずきの石”。ホロコーストの犠牲者を痛み、そして忘れないためのモニュメントである。

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