2023年12月17日日曜日

歴史の中の新約聖書 Ⅰ

学園の図書館で、加藤隆先生の「歴史の中の新約聖書」も借りてきた。加藤先生は、傑出した書である「武器としての社会類型論」の著者である。そもそも千葉大の神学の先生である。今回は何よりも著者で選んだというわけだ。

表題の通り、歴史と新約聖書のか変わりについて述べられた本であるが、新しい発見も多々ある。まずは、ユダヤ教の一改革派のような存在であった原始キリスト教団は、ユダヤ戦争(紀元66年~70年)後に、それまでは寛大だったユダヤ教が律法主義に収斂し、反律法主義だったキリスト教団は、80年代からユダヤ教と分裂せざるをえなくなっていったと言う事実である。

さらに興味深い考察。ユダヤ教徒においては、神と人間の関係において、「タテマエ」と「ジッサイ」があると言える。「タテマエ」は、神はユダヤ人を選んで、ユダヤ人だけを救っていく。非ユダヤ人は異邦人で救われないということになっている。しかし、「ジッサイ」には、神と断絶し救われない状態になっている。これは「罪」によるもので、旧約聖書の中で繰り返し述べられている。その1つ「イザヤ書」の例が挙げられている。

このことは、ダヴィデ・ソロモンの王国の後、南北に分裂するが、多神教信仰の問題が絡んでいる。特に北のイスラエル王国では、多神教信仰が南のユダ王国より盛んになり、アッシリアに滅ぼされてしまう。ユダ王国も属国にはなるが、一応の独立を保つことになる。この際、ユダ王国では、ヤハウェの神がダメな神故にイスラエルが滅ぼされた(古代では信仰する神の強さが戦争の勝敗を左右するというスタンスであった。)のではなく、多神教に染まるという罪を犯した故である、という思考に変化していく。後に彼らもバビロン捕囚で、この思考を深めていったのである。

ところで、キリスト教の場合、一部の人が救われている。ユダヤ人出身者も非ユダヤ人出身者もいる。ユダヤ人だけを優遇するわけではないので、普遍主義である。ただ、すべての人が救われるのではないので、普遍的とは言えず、キリスト教の救いは「普遍主義的」である。キリスト教においては、神は普遍主義なのに、救いが普遍的に実現されていない。今でもこの状態が続いている。この問題をめぐってキリスト教のすべての展開が生じたといってよいほどである、と加藤先生は言われている。

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