2023年12月17日日曜日

聖書の読み方2

https://ashiyanishi.church/?p=693
「聖書の読み方」第2章は、著者の聖書の読み方への提案である。提案は次の5つに整理されている。1️⃣キリスト教という名の電車に降りる勇気と乗る勇気。2️⃣目次を無視して文書ごとに読む。3️⃣異質なものを尊重し、その心を読む。4️⃣当事者の労苦と経験に肉薄する。5️⃣回答を求めない。真の経験は遅れてやってくる。

1️⃣において、聖書の基本文法(思考の規則)が著者より提示される。2世紀後半以来、洗礼式で使われている「使徒信条」(カトリック、英国国教会、プロテスタントのみ。オーソドックスでは使われない。画像参照)である。この使徒信条を持つ者がクリスチャンであり、電車に乗っている者、乗っていない者という比喩で、見事に解説されている。聖書を読む際、この使徒信条を信じている電車に乗っている者は全く問題はないのだが、私のような異教徒・電車に乗っていない者には理解不可能なことが現出するわけだ。著者は、乗っている者には、乗っていない者への配慮(降りる勇気)が必要だし、乗っていない者には乗る勇気(決して信仰する必要はないが、理解しようとする意志)が必要だとしている。…なるほど。

2️⃣においては、旧約も新約も個々の文書が編集されたものであることが前提。通読は無意味であるわけだ。ちなみに旧約については、4世紀のヘブライ語をラテン語訳したウルガータ訳が現在のカトリックもプロテスタントも使う新共同訳聖書の配列になっているそうだ。なお新共同訳聖書には続編があり、13の外典文書をカトリックでは一定の権威(第二正典)が認ている。新約についても同様、ウルガータ訳で一致しているとのこと。

さて、私が興味深いと感じたのは、物語性の強い四福音書の全体のつながりの部分である。マルコの福音書では、最初と最後の「裂ける」という語が出てくる。イエスがヨハネの洗礼を受けた後、天が裂け、イエスが絶命した時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂ける。福音書の著者は、神の子に不可能はなく、まして殺されることなどありえないという見方を「引き裂こう」としているらしい。またマタイの福音書の最初と最後には、「神が我らとともにおられる。」「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と書かれており、イエスの生涯が神と人間が「共にいる」ことを実現するためだったというのが主題である。ルカの福音書では、イエスを誘惑しようとしたサタンが時が来るまで離れたが、ユダのなかに入り込んだ。イエス無き後はサタンが活動を再開するという主張が見て取れるそうだ。ヨハネの福音書では、プロローグで「言葉(先在の神の子・イエス=キリスト)は、自分を受け入れた人々、その名を信じた人々には神の子となる資格を与えた。」とあり、復活後、マグダラのマリアに、「私の父であり、あなたがたの父である方、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は昇る。」とある。イエスの生涯は彼を信じる者がイエスの兄弟となり、神の子になるためだったとしており、それぞれの福音書には中心的なメッセージが込められているわけだ。

また、新約のパウロの手紙は、基本文法の12の要素のうち、「十字架」に重心を置いている。ヨハネの福音書は、「受肉」に重心が、ヨハネの黙示録では「再臨・終末」に重心がある。新約には書き手の数だけの「声」があり、このような「声」の「多声体」であると著者は言う。

3️⃣で興味深かったのは、イエスの治癒奇跡が弁神論(病気や心身障害はモーセの律法に反した罪によるもの)を真っ向から否定していたことである。4️⃣・5️⃣については、異教徒としては特にエントリーすることはなかった。とはいえ、第二章も実に勉強になったのであった。

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