2023年9月24日日曜日

「高校倫理」の生命倫理 考

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倫理と公共の試験も出来て、2学期・後半の準備に入っている。これまで長年「倫理」の授業をやってきたけれど、生命倫理の分野など、読めばわかるので講じてこなかった。今年はかなりのスピードで授業を進めてきたので、余裕があり、ついに触れることになった。生命倫理は、生と死の問題に大きく分離できる。

生の問題は、インフォームド・コンセントや代理出産、出生遺伝子診断、クローン技術、リプロダクティヴ・ヘルス/ライフ問題など。死の問題は、末期医療、延命治療とSOLとQOL(生命の尊厳か、生命の質かという問題)、具体的には安楽死と尊厳死、脳死と臓器移植の問題などである。まあ、受験のスキルとしては、どうしても理解云々よりも用語を暗記するといった内容になる。

死の問題に関しては、自死のことが省かれている。青年期の生徒たちにわざわざ教えないほうがよい、というプラグマティックな理由だと私は考えている。ただ、生命倫理と銘打つならば、自死をどう捉えるかというのは、甚だ重要であって、異文化的な側面から今回は講じようかと思っている。

キリスト教世界においては、宗教的に大きな罪とされている。創造神によって得た命であるという大前提があるからだ。ダンテの「神曲」においては、自死した者は、当然地獄行きで、それも第7圏の第2円に落とされる。かなり下層である。「神曲」はフィクションではあるが、およそカトリックの世界観はつかめる。イスラム教世界でも、自死は地獄に通ずるとクルアーンにある。なお復古主義の過激派が自爆テロに及んだとして、ジハードならば天国行き、民間人を巻き込むと地獄行きらしい。

仏教においては、基本的に罪悪視しない。自死はすべきではないし、見過ごすことも良くない、しかしその決断が自己の誇りある決断なら認めている。悪意でも過失でも弱さでも愚かでさもない、という立場である。日本の武士の切腹という文化は、創造神による得た命という前提がないゆえに存在する。昔から、究極の修行というか、苦行で、民衆の苦悩を救うという大願のもと、即身仏になった僧侶も何人もいるし、南ベトナムの僧侶が政府の姿勢に反対して焼身自殺したのも有名である。東洋と西洋は当然ながら大きく生死観が異なる。

すこし、倫理という概念からは離れるが、法的な側面も見てみたい。日本では、自死は、民事が絡む場合を除いて、法には触れない。だが、幇助は犯罪とされている。このスタンスは、世界的に見てスタンダードのようである。自死した本人も幇助した者も違法である国もイスラム圏を中心に多いが、17カ国ほど。両者無罪の国や州もある。ドイツ、ベネルクス三国、スペイン、カナダ、コロンビア、西オーストラリア州、アメリカでは、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州といった民主党の強いリベラルな州と、なぜか共和党の強いモンタナ州、どっちつかずのコロラド州が合法としている。

自死などしないにこしたことはないが、こういった地域によるスタンスの違いも、生命倫理という側面から見たほうが良いのではないだろうかと私などは思うのだが…。

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