2023年8月14日月曜日

満州事変:満蒙は生命線?

満鉄とくればアジア号である https://globe.asahi.com/article/12609241
加藤陽子氏の「それでも、日本人は戦争を選んだ」第4章:満州事変と日中戦争についてののエントリー/前編。 満州事変は、1931年に起こされ、日中戦争は1937年に起こったと、著者は動詞に区別をつけている。この相違を認識しながら、まず満州事変について。

まずは満州事変の基本的な事。関東軍は、関東州(大連・旅順)とロシアから割譲された中東(=南満州)鉄道の保護を目的とした軍で、兵力は約1万だった。当時、満州(東三省:遼寧省・吉林省・黒龍江省)を支配していたのは張学良であり、兵力は19万。関東軍特務機関が、張への反乱を工作し、華北に精鋭11万を連れて留守にしている隙に、張作霖(張学良の父)爆殺事件を起こしたのである。日露戦争後、日本は南満州、ロシアは北と分割支配する秘密条約を結んでいた。さらに北京の東経116度27分より東の内蒙古も、秘密協定に追加された。(西は当然ロシア支配)その後に、清朝が倒れ、さらにロシア革命が起こる。

中国新政権との間で、これまでの条約で議論が噛み合わないグレーゾーンについて両者の条約の解釈の違いが浮き彫りになる。しかも日露の満州分割は、秘密協定であり英仏米などの列強の認識にはなかった。そこで、既成事実を集積する。外務省と陸軍、商社が一体になって急いで鉱山開発やインフラの整備に投資、「特殊権益」を創設していく。1926年の満蒙投資総額は14億20346685円(当時の金額:内85%が政府関連出資)で、なにか事が起これば国家の望む方向に人々は動くことが容易に想像できる。実際、当時の日本人の満州に対する感覚は、事変前でも東大生の9割が武力行使容認だったというアンケートが残っている。松岡洋右(当時代議士)が事変の9ヶ月前に、幣原喜重郎外相(浜口雄幸内閣)の協調外交を批判し、「満蒙は我が国の生命線である」と演説した。これは世の中を席巻すようなフレーズであったわけだ。

ところで、満州事変を画策した石原莞爾はWW1後のドイツ留学で、これからの戦争について経済封鎖を乗り越える必要性を説いた。満蒙支配は来るべきソ連やアメリカとの戦争に備えるためのもの。国民間の中国の条約不履行(満蒙は条約で日本の権益が認められているのに、イチャモンをつけてきている)とは違う観点であった。ここに、1929年の世界大恐慌が起こる。生活苦にあたって、満蒙は生命線という認識が国民間に広がり、これを関東軍は見逃さなかったのである。

1931年9月、事変が起こる。この時、兵力で圧倒的不利だった関東軍は朝鮮軍に越境を要請、これは完全に統帥権侵犯である。しかし内閣(若槻銑十郎内閣:幣原外相と井上蔵相は反対したが…)は弱腰だった。三月事件をはじめ、後には十月事件5.15事件など、軍部による圧力が急激に増していたのである。

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