レヴィナスは、リトアニア生まれで小さい頃から正統派ユダヤ教徒として育っている。環境的にもユダヤ人が多く、バリバリである。ナチが政権を握った頃には、フランスにいて、やがて帰化し、仏軍の独語・露語通訳として招集され、捕虜として収容所に入る。この間に、家族や親戚は全て殺されている。
一方、アーレントは、ドイツのユダヤ人名家出身だが、教養人の両親はユダヤ教コミュニティには参加していない。幼い頃は親しいラビの影響でシナゴーグにも行っていたが、義務としてキリスト教の日曜学校にも行っていたようである。ホロコースト時には、アメリカに亡命している。
レヴィナスは、フッサール、ハイデガーに学んでいる。フッサールはすでにこの頃すでに老成しており、後任教授のハイデッガーの存在と時間に魅せられている。だが、レヴィナスは、ユダヤ人としてのアイデンティティの面からこの2人に裏切られている。フッサールはユダヤ人だったが、プロテスタントに改宗。ハイデッガーはナチ党員となり、大学総長に出世した。レヴィナスの哲学は、正統派ユダヤ教徒として戦後この2人を乗り越えるカタチで生まれる。
アーレントは、フッサールやヤスパースなどに学び、若きハイデガーの不倫相手であった。彼女の哲学は、戦後、社会哲学に向かう。次第に、ユダヤ人という殻は薄れていく。特に雑誌に連載された「エルサレムのアイヒマン」は、アイヒマン裁判の傍聴記録だけでなく、裁判の正当性(人道に対する罪の是非、アルゼンチンに隠れていたアイヒマンをイスラエルの秘密警察が国外に拉致した主権侵害など)を問い、さらに、ソ連のカチンの森虐殺事件やヒロシマ・ナガサキの原爆投下などにも触れている。よって、ユダヤ系の人々からの批判が強い。レヴィナスがホロコーストによって、全てを失った経験に由来する(フランス語の)イリヤは、主語のない存在の意味で、高校倫理の範囲を超えているのだが、ちょっと触れる予定。この現象学的な語句に最も近いこれまでに教えた哲学用語を問いかけるつもり。答えは”das Man”(世界内存在ででてくる”ひと”)である。ただし、イリヤは存在すべてを指すので同義語ではないのだが…。ヒントとして、ハイデガーの名を挙げれば出るかもしれない。
ホロコースト批判とくれば、高校倫理では、何と言ってもフランクフルト学派である。第一世代のホルクハイマーやアドルノ。社会哲学者としてのアーレントは、ナチだけでなくソ連のスターリズムも全体主義としてくくっている。しかし、人間の活動という公共性に期待する結論は、第ニ世代のハーバーマスに近い。これまた不思議なのだが…。ちなみに、ハーバマスは教える価値はあまりないと私は思っている。
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