2023年8月12日土曜日

日露戦争:門戸開放と増税

日露戦争の経過については、司馬遼を読みこんでいるので、日清戦争より私ははるかに詳しい。とはいえ、第3軍の乃木=西郷、伊地知=桐野という図式で描かれているので、すこし眉唾だが…。

加藤陽子氏の「それでも、日本人は戦争を選んだ」第2章:日露戦争についてののエントリーを続ける。当然ながら、戦史的な側面より、当時の国際情勢や国内状態の話が中心である。知らなかった逸話だが、ニコライ2世の戴冠式に李鴻章を招いて、どうやらとんでもない額の賄賂を送ったらしい。(クレムリン宮殿にはダイヤモンド庫を始めとしたお宝が今もあり、著者は実際に見たそうである。)その直後、露清防敵相互援助条約(対日攻守同盟)という密約を交わしている。さらに東清鉄道(中東鉄道:黒竜江省からウラジオストクを結ぶ)の敷設権を露仏の銀行に与え、さらに下関条約の賠償金援助の担保として、ロシアは旅順・大連の25年間の租借権と東清鉄道のハルビンから旅順・大連までの支線の敷設権を獲得する。この鉄道は、山縣有朋が恐れていた事態で、シベリア鉄道は中国国内を通らないので日本の国防上すぐには脅威にならず安心していたのが、まさにの悪夢となった。一方、義和団の乱の時、ロシアはチャンスと見て、段階的に撤退するという条件をつけて黒竜江沿岸を占領した。清ではロシアについていって大丈夫なのかという疑念が起こるが、1901年当事者の李鴻章は死去してしまう。義和団の乱は終わってもロシアは撤退しないという状況に、イギリスは、日本と日英同盟を1902年に結ぶ。(実は、イギリスは当時南アのボーア戦争で苦戦していたのだ。)

国内に目を向けると、民党はこの日英同盟をロシアに自制を求めるものだと冷静に受け止め、しかも大海軍国と同盟を結んだのだから海軍の軍艦製造は必要なくなり、地租を上げる必要もなくなった、と歓迎した。日英同盟が日露戦争の引き金となったという論は間違っている。最近の研究では、支配層や国民の大部分は厭戦的だったようだ。東大と学習院大の七博士が、シベリア鉄道の開通前までに開戦すべきという意見書を出したのは1903年6月。参謀本部が七博士の意見に同意するのは10月。元老の山縣も伊藤も非戦論だった。(開戦は1904年2月だから、かなり開戦論に傾くのに時間がかかっている。)

当時ロシアは、ポーランド、フィンランド、エストニアなどが反抗しており資金面で日本と戦争する力がないと、日本政府は考えていた。しかし、ロシアの政治状況が変わってきていたと故という新資料からの研究が進んでいるそうだ。ウィッテ蔵相やクロパトキン陸相といった極東問題に詳しい人々が失脚し、ベゾブラーゾフ一派が韓国をとってしまえば大連・旅順は安泰という日本が安全保障上最も嫌がる策を講じてきたのである。よって、現在の研究では、ロシアの方が戦争に積極的だったというのが結論になっているとのこと。

事実上は韓国を巡る安全保障上の問題だったのだが、イギリス・アメリカが本気になって日本を応援してもらうための大義が必要だった。それは満州の門戸開放となる。世界的な大豆の産地をロシアに握られ、北京への影響力を増すことは他の列強にとって死活問題であった。(満州をロシアが取れば、鉄道運賃や関税で自国有利にすることは見えていた。)アメリカは、日露戦争の前に、イギリスが日清戦争前に行ったように条約の改訂を行う。これは、満州の門戸開放を行うというプロパガンダでもあった。これで、日本は戦費を集めやすくなった。

…日露戦争は、随分前に第0次世界対戦だというエントリーをした。(2012年7月27日付ブログ参照)英米は日本についたが、フランスは、東清鉄道で銀行が共同出資しており、鉄道公債の回収ができなくなるので及び腰ながらロシアを応援することになる。ドイツビスマルク失脚後で、ヴェルヘルム2世はドイツにロシアの目が向かないように黄禍論を唱えていた。フランスよりロシアに金を貸している。中国は、中立の立場をとるが、日本と協調して門戸開放してもらった方がよいと考えていたようで、義援金を送ったりしている。袁世凱が上海銀2万両を送っている。しかも戦場においては中国側が諜報活動に協力的だったという。

戦後のポーツマス条約で、日本は賠償金を取れなかった。戦時中の桂内閣は戦費のために外債を大量に発行し、ものすごい増税を行った。地租は2倍になったし、個人の勤労所得が増えたので営業税や所得税が直接税として1903年には、非常特別税法のため同じ額をもう1回払わされている。しかも賠償金が入らず、7割増の税がかされることになる。ちなみに、戦前の1900年に山県内閣は、選挙法を改正して、10円納税者にまで選挙権を引き下げ選挙権者が98万人に増えた。しかもその後の増税で、158万人に増え、政治家の質も地主から経営者や銀行家が増えた。山縣内閣は、日清戦争語の産業の発達を担う商工業者のため都市部での選挙区の区割りを変えたり、被選挙権の納税資格(15円以上)を撤廃したりしていた。この選挙権保有者の増大が日本国内では大きいと著者は言う。もちろん、日本は国際的に公使館しか置けなかったが大使館となり、目に見える形で国の格が上がった。1911年には念願のの条約改正がなり、日清戦争ではアジアからの独立、日露戦争では、列強からの独立が達成されたわけだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿