2023年8月11日金曜日

日清戦争:華夷思想と民党

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♪煙も見えず雲もなく風も起こらず波立たず鏡のごとき黄海は…。これは、黄海の海戦を歌った”勇敢なる水兵”という軍歌の冒頭である。田河水泡の漫画”のらくろ”は、これを別の歌詞でのらくろの歌として載っている。(上記画像:のらくろ漫画全集に載っていたので、後世のアニメではない。)日清戦争というと私はこの軍歌を思い出す。

加藤陽子氏の「それでも、日本人は戦争を選んだ」第1章:日清戦争についてののエントリーを続ける。まず印象的な話に、華夷思想(中国は朝貢貿易のように、従属国を従えていたので、列強からすれば、安全保障的には、中国を通せば安価に進出が可能な制度と捉えられていた。ベトナムや朝鮮と貿易をしたければ武力に訴える必要がなく、中国と話をつければよかった。)の変化がある。新疆のイリ地方でヤクーブ・ベクがロシアの援助を受けつつ新国家を作り上げてしまった。ここは華夷秩序内であるという認識が李鴻章にはある。そこで、ロシアには中国領土の一部を割譲してイリ条約を結んだ上で、武力で新国家を潰した。この中国の変化が重要で、朝鮮への態度も変えていく。1881年、朝鮮・ベトナムを直轄下に置くことにしたのである。当時の日本は、朝鮮と日朝修好条規という不平等条約を締結しており、李王朝内では日本寄りの改革を進めていたが、親清国派が力を得る。(壬午事変)1884年甲申事変が親日派にょっておこされるが、清軍が鎮圧、袁世凱を送り込み、日本とは天津条約を結ぶ。陸軍のトップだった山縣有朋は、この中国の華夷思想の変化に早くから気づき、1880年には軍備拡張において、日本も負けていられないと上奏している。1885年、福沢諭吉が「脱亜論」を発表する。これは、大アジア主義だった福沢は、「西洋人がこれに接するの風に従いて処分すべきのみ」(朝鮮の親日本派を使って進出することは不可能になったので、清を討ってから進出するしかない。)と記されていた。

民権論者(帝国議会では過半数を占める民党:立憲自由党+立憲改進党)は、この頃、意外にも山縣や福沢と同じような東アジア認識を持っていた。15円以上の納税者であるゆえに、地租軽減を主張し反政府的であったが、条約改正については危機感をつのらせてきた。日本の独立ということに強い気持ちがあったようだ。

さて、1893年(日清戦争の1年前)、(立憲自由党から自由党に改称した)板垣退助は、2種類の新聞を発行していた。知識階層には「自由党報」、(選挙権のない)民衆には「自由燈」(じゆうとうと読ませることを計算して自由の”ともしび”)である。民衆には面白おかしく煽っている文章で、(列強に属国とされてしまう)無気無気力の奴隷根性を批判し、好戦的であった。

ところで、まだ政党を基盤とする議院内閣制ができる前で、藩閥政治が政府のポストを独占していた。福沢は、当選が日本の勢力下に置かれれば政党員は新天地でポストを取ったらどうかと言う。実際、その後台湾総督府や日露戦争後朝鮮総督府も出来て、数千人規模の新しいポストができた。民党からすれば、これはおいしい話であった。一方で、地租増税に反対だった民党は、政府に経費節減を強いた。当時は、今より遥かに議会が予算の額を決めることが可能だった。(帝国憲法64条)この歳出での余剰金・2600余万円が、5ヶ月間の軍費(弾薬や軍艦など英米に支払う必要があった。)となった。足尾銅山で有名な立憲改進党の田中正造は日露戦争には反戦・非戦論の立場だったが、日清戦争は違い、賛成しており、民党の軍費を支弁したのは民党の成果だと年賀状に書いている。

最後に、元海援隊の陸奥宗光外相の話。陸奥は、「我が政府の廟算(びょうさん)は外交にありては被動者の地位を取り、軍事にありては常に機先を制せんとした。」(外交では日本は仕方なくこうせざるをえなかったという受け身のかたちをとります。けれど軍事においては着々と準備します。)という台詞を吐き、東学党の乱がおさまり、清軍も明日には引き上げようかという時に、海軍陸戦隊430名をソウルに入場させ、さらに一週間以内に陸軍を4000名仁川に上陸させている。この1ヶ月後に日清戦争が始まるのだが、陸奥は日本と清で朝鮮の実効性のある改革をしようと提案、改革が着手されるまでは日本は軍を引かないと言い、清とやりあった。イギリスは、ロシアが南下することを嫌がり、日本の背中を押す。日英通商航海条約を締結、条約改正に大きく舵を切ってきた。日清戦争は、帝国主義の代理戦争という意味合いも強い。実は、イギリスも下関条約でさらに4つの都市が開かれ、他の列強も貿易上の利を得ることになる。

日清戦争の死者は陸軍が13488人、海軍90人、傷病者は、陸軍が285853人、海軍が197人。清と朝鮮の死者数はは3万人と見積もられている。日英通商航海条約で、領事裁判権の廃止、関税自主権の原則回復がなされ、当時の日本の予算が約1億円であったのでその3倍以上の2億両(三国干渉での遼東半島還付金を含めると3.6億円)の賠償金と台湾を得た。アジアの盟主としての意識が国民に生まれながらも、三国干渉に屈した政府は民意が反映されていない、もし日露戦争が起こったら徴兵されるのは選挙権のない民衆であり、普通選挙運動が起こってくる、というわけだ。

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