2023年4月19日水曜日

佐藤優 「大日本史」Ⅷ

第5章「満州事変と天皇機関説」のエントリー。この章で最も記しておきたいのが永田鉄山(統制派の中心人物としても有名)のことである。昭和前期の軍部の台頭は、1931年の満州事変が決定的である。柳条湖事件の首謀者として、関東軍作戦主任参謀だった石原莞爾とその上官の高級参謀・板垣征四郎が挙げられてきたが、一部の暴走だと見てしまうのは危険だと山内氏。満蒙問題については、陸軍がコントロールできる体制を作り上げることの陸軍内コンセンサスがあり、方法論とどれくらい関わるかが問題であった。佐藤氏は、外務省でも先輩からの話として、対米戦争も辞さずに満蒙問題を解決すべきという右派と平和裏な形で満蒙問題を解決すべきという左派(マルクス主義とは無関係)が存在していたとのこと。

満州事変を成功させるには、朝鮮軍を越境させねば兵力は不足し、その予算支出が必要、天皇への上奏、内閣による閣議決定も通さねばならない。つまり日本の国家機構を動かす必要がある。このシナリオを作り、コントロールそたのが、当時陸軍省軍事課長だった永田鉄山である。永田は課長でありながら、その能力において一頭地を抜いており、参謀本部や陸軍省の部長や局長級クラスの会議にも参加を許されていた。この柳条湖事件は、陸軍刑法に照らしても大罪だったが、その後の政治プロセスは国際法的にも瑕疵はないと説明、国内的は合法的な手続きをきちんと踏まえて行動を進めていった。実に永田は冷静であると山内氏。これと関連して、佐藤氏が面白いことを言っている。「この種の謀略は、米英はやまほどやっている。謀略というのは何度も仕掛けるものではなく、大きなものを1つやればいい。発覚しなければ問題ないが、バレたとしても、やったやらないの水掛け論に持ち込めれば十分、というのが彼らの論理。その意味で柳条湖事件は当時の報道や国際的な反応も両論併記だったので成功といえる。」

…たしかにトンキン湾事件をはじめ、おそらくはウクライナでも策略が横行しているのだろう。

永田の凄いエピソードがある。参謀総長が天皇に上奏する直前、(内閣の予算支出や経理的な処理が終わっていない=内閣の承認が得られていない故に、軍部の独走と言われる可能性があるので、)朝鮮軍越境したという事実だけを伝えるよう電話で指示している。課長が、参謀総長に指示しているのである。軍は政治には関わっていはいけないという禁じ手を完璧に実行してのける危険な存在であったわけだ。この永田は、1935年相沢中佐に暗殺される。この後、永田のような国家の長期ビジョンも科学的合理性も法的手続きの正当性への配慮もない単細胞の軍人たちが下剋上と強引な政治介入の禁じ手のうわべだけを引き継いでいくことになった、と山内氏。ちなみに永田鉄山は徹底して合理的主義的に戦争を考えており、総力戦に備え高度な科学技術に支えられた国防体制の必要性を解いていた。画像にあるように、同じ統制派でも東條ではなく、永田鉄山だったなら歴史は変わっていただろうと山内氏。

天皇機関説の話では、蓑田胸喜の話が出てくる。東大に残れなかったルサンチマンの反エリート闘争で、「原理日本」という雑誌で、知識人たちを震え上がらせるぐらいのすさまじいレトリックとパワーで、美濃部を攻撃する。かの大川周明も蓑田胸喜に噛みつかれて、「日本二千六百年史」では不敬罪で告訴されている。反エリート闘争のパワーは軽視できないとのこと。この章を、佐藤氏は、昭和史は教訓の宝庫である、と結んでいる。

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