2023年4月13日木曜日

佐藤優 「大日本史」Ⅲ

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山内昌之・佐藤優の「大日本史」第2章は、「西郷と大久保はなぜ決別したのか」というタイトルである。大久保が岩倉使節団で外遊中に、西郷が征韓論を唱える話である。富国強兵という考えは同じだが、西郷の方は失業した士族へのケインズ的な発想であった。しかし大久保の財政観が結局正しかったというのが結論である。これは、この書の書評ではなく、これまでの私の知識である。西郷が実際、薩摩士族を東京の警察官に多く雇用したり、軍人に雇用したりしていたことは有名で、西郷という人物らしい話である。

さて、書評に入ると、岩倉視察団について、面白い話が載っている。この視察団のような例は世界史でも類を見ない。17世紀にピョートル大帝が自分も偽名で視察団に加わりアムステルダムで船大工をしたという話くらいである。佐藤優は、この視察団がどれくらい金を使ったかという視点で語っている。使節46名、随員18名、留学生43名、総勢107名。1年10ヶ月。山内氏は米価などの推移から大雑把に言って100億円くらい使っている。当時の国家予算の1.5%にあたるらしい。佐藤氏は、外交の常識として安いホテルに泊まるとなめられるということを誰か(福沢諭吉?)から聞かされていたようで、ロンドンならマジェスティックホテルなど最高級ホテルに宿泊していたらしい、と外交官の経験から語る。

この岩倉使節団を派遣できたのは、当時の明治政府が独裁的ではなく連合政権だったことが大きい。使節団に参加しなかったメンバーもかなりの人材揃いで西郷、板垣を始め、井上馨、山縣有朋、大隈重信、江藤新平、副島種臣らが学制発布や地租改正、徴兵令などの実務を進めている。しかしながら、薩摩は統制が取れていたが、木戸と伊藤を欠いた長州は弱体化していて、肥前の攻撃を受けている。西郷がこれを抑えバランスをとっていたが…。この連合政権、「公議輿論」について山内氏が語る。江戸幕府にまかせてられないと、公武合体論の山内容堂が有力諸侯を集め合議制の参与会議を提案、しかし島津久光がこれを蹴ってわずか1ヶ月で解体。そこで、山内容堂と島津久光、松平春嶽、伊達宗則の四賢侯の会議が設定されたが、公武合体・幕権尊重の曖昧なやり方では対処できなくなり、下級武士に実権が移っていく。それでも、維新の三傑らが独裁的だったかというとそうでもなく、大隈や江藤、井上ら実務的エリート、更に世代が下の伊藤や山縣との差がはっきりしないまま、合従連衡が行われていったというわけだ。

岩倉使節団も、幕臣のエリートに頼らざるを得なかった。書記官はほぼ海外経験のある幕臣で福地源一郎(桜痴:有名なジャーナリスト)などが参加していた。佐藤氏は、この時の留学生から次世代のエリートが生まれていることに面白さを感じている。金子堅太郎、牧野伸顕、団琢磨、中江兆民、津田梅子などだが、佐藤氏はアメリカで木戸に通訳として見出された新島襄(本日の画像参照)についても述べている。さすが同志社OB。新島のアメリカでの内在論理を探った結論は、欧米と遜色のない人文系に強い大学を作る必要性と、ミッションスクールではない(=欧米の植民地化に寄与しない)キリスト教精神を持った人材育成で日本語教育にこだわったと。第2章の前編はここまで…つづく。

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