2022年12月5日月曜日

逆説の世界史2を読む。

市立図書館で、「逆説の世界史2:一神教のタブーと民族差別」(井沢元彦/小学館)を借りてきた。一神教については、それなりの見識を持っているが、新たな知識の発掘のためにと思ったのだ。この本は、一神教徒ではない世界の50%を占める者(一神教は作られたものだという仮説を提示できる者)としての知のアプローチである。備忘録的にエントリーしていきたいと思う。

一神教以前に、一神教は造られたという視点が提示されている。エジプトのイクナートンの宗教改革である。しかもこのアトン神という一神教は、ファラオという王という神的存在と同時に存在していたことが、キリスト教を想起させるという話だ。ミルチャ・エリアーデという著名な宗教学者は、厳密に言えば一神教ではないといっている。この宗教は二段階方式で、王はアトン神を独占的に信仰し、エジプトの民衆はアトン神と共にある王を神として信仰していた。よって、神は2つであるというわけだ。この宗教改革は失敗した。ではなぜユダヤ教は成功したのか?と言う流れで、本編が始まる。

出エジプト後の民数記第20章で、モーセは水不足で騒ぎ始めた民のために、幕屋(礼拝所)で岩より水を出すように指示を受けたのだが、この際神の意思であることを言わなかかったが故に、この罪によって、モーセも彼の兄も約束の地に入ることが出来なかった。酷い話のように思うのだが、そもそも人間がこういう感想をもってはいけないのが一神教である。人間は被造物、神によって造られたモノに過ぎないのである。パウロは、後に神と人間の関係を壺作りと壺の関係に例えている。壺が気に入らなくて壊すのは壺作りの自由なのである。善悪を決めるのは人間ではなく神であるというルールは旧約聖書からすでに絶対のものとして貫かれており、ヨシュア記では、モーセの跡を継いだヨシュアとユダヤの民は、エリコとアイの街で大虐殺を行う。こんな事が許されるのは、神が決めたことであるからだ。…つづく。

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