2015年7月31日金曜日

ポーランドから無事帰国

ワルシャワ ホテル近くの朝の風景
今朝7時台に無事関空に着き、帰国ました。関空を出た瞬間の蝉の大音声と湿気を十分に含んだ暑さに、大きくたじろいた次第です。

今回のポーランド行についても、出発前は詳細な日程がかなりあいまいで、しかも現地でエレサレム在住の息子夫婦と行動を共にしたこともあって、結局、次のような運びになりました。

7月24日(金)早朝に自宅を出て、高速京田辺から関空へ。LH741便(やはりB747でした。)でフランクフルト空港へ。ポーランドはシェンゲン協定実施国なので、ここで入国手続き。LH1350(A320で、まるでピーチ航空のような機内)で、ワルシャワ空港着。フランクフルトに30分遅れて着き、遅延で離陸したのですが、到着はほぼ予定どおりなのが不思議。(笑)すでにプラハから夜行バスでワルシャワに来ていた息子夫婦と合流し、ホテルへ。ちなみに息子夫婦は生粋のバックパッカーなので、安いホステルをすでに全て予約しており、以後いちいち朝に待ち合わせすることになりました。

7月25日(土)ワルシャワ1日フリーの日。前日の話し合いで、マイダネク強制収容所(ルブリンという第7の都市にあり、ワルシャワから鉄道で往復5時間はかかるが日帰り可能)は、4日後にまわすことにして、まずは、ワルシャワゲットーの跡地にあるポーランド・ユダヤ人歴史博物館と、パヴァイク刑務所博物館(ドイツ占領当初、多くのポーランド人指導者が収監・処刑された地)へ向かいました。その後、世界遺産でもある旧市街を散策。この日は、猛暑で、しかも雷を伴った凄いにわか雨もありました。

7月26日(日)ワルシャワ中央駅から、ツアーの日程にしたがって鉄道で、クラクフへ向かいました。(息子夫婦は、ワルシャワ=クラクフの切符を前々日に購入済。)13時前に着。駅に近い我がホテルにチェックインした後、世界遺産の旧市街へ。そのまま、息子夫婦のホステルがあるカジミエシュという旧ユダヤ人街へ。全て徒歩。

7月27日(月)これもツアーの日程で、クラクフ駅を8時台の鉄道で、アウシュビッツ強制収容所・ビルケナウ(アウシュビッツ第二)絶滅収容所のあるオシフィエンチムへ。息子夫婦もクラクフ=オシフィエンチムの鉄道切符を当日購入。駅を降りて、すぐに収容所には向かわず、市内の旧市街とシナゴーグへ。そしていよいよ、日本語ガイドの中谷さんと待ち合わせ、館内へ。帰路は、鉄道をやめて(切符を捨てて)、すぐ乗れるバスでクラクフに戻りました。
クラクフ ホテル近くの朝の風景
7月28日(火)少し朝は休憩をとってから、クラクフのカジミエシュのシナゴーグとユダヤ人墓地めぐり。さらに、映画シンドラーのリストで有名な工場跡にある博物館へ。最後に、プワシュフ強制収容所跡のモニュメントに向かいました。息子夫婦とは、この夜から別行動。私たちは結局、疲れもあってルブリン(マイダネク)行を諦め、ツアーの日程どおり、列車でワルシャワに戻ることにしました。

7月29日(水)昼の2時すぎにワルシャワに着いたのですが、ブラブラと街歩きを楽しみながら、ホテルへ向かいました。結局もう観光らしい観光はせず十分に休息し、帰国にそなえました。

7月30・31日(木・金)朝10時25分発のLH1347便・LH740便を乗り継いで帰国というわけです。

こうしてみると、ワルシャワとクラクフの世界遺産・旧市街を観光した以外は、ほとんどユダヤ・ホロコースト関係であったことがわかります。(マイダネク強制収容所に行けなかったことは残念ですが。)この旅の紀行文というか詳細なエントリーは明日以降ということにしたいと思います。

ところで、秋田商野球部が、県予選を勝ち抜き、また甲子園に戻ってきます。私はこの朗報をワルシャワの旧市街のカフェで息子のIパッドで知りました。いやあ、O先生おめでとう。また甲子園に応援に行きますね。(3年前のイスエラル行の時も、秋田商が出場を果たしました。なにかの因縁でしょうか?)
そして、本校の野球部ですが、同じ場所で、府立K高校に勝ったことを知りました。U君がホームランまで打って快勝でした。帰宅後、おそるおそる調べてみると、その後私立K高校にも勝ち、ベスト8まで進んだことがわかりました。1年生のころからマウンドに立ってきたA君の頑張りも大きかったのではと思います。応援には行けなかったけれど、久々のベスト8進出。昨年の悔しさを払拭してくれたと思います。よく頑張ってくれました。ありがとう。

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