2015年7月17日金曜日

ホロコースト全史を読む。(5)

http://www.weblio.jp/wkpja/content
第6章の「絶滅収容所」を読みきった。来週の今頃はロシア上空にいると思うと、急がねばと思う。今日も「ホロコースト全史」のエントリーを続けたい。こうしてエントリーすることは、ポーランド行きの事前学習であるとともに、人権主担として、ホロコーストについて生徒に講義する予定を組んでいるからだ。写真もできるだけ撮りためて、前回のイスラエル行同様パワーポイントの教材をつくる予定である。そのための準備でもある。

今回も第5章の「国家政策としての殺戮」と第6章から、これまで知らなかった事実を抜書しておきたい。まず、鉄道による強制輸送についてである。収容所は巧妙にポーランドの主要な鉄道路線に沿って建てられており、ドイツの国鉄ライヒスバーンは、140万人(うち公務員は50万人)の人員を擁していた。彼ら職員は、輸送されたユダヤ人がどうなるかを知っていた。アウシュビッツだけで44本の線路が入っており、第二収容所のビルケナウ絶滅収容所には入口に直接接続する側線も引かれていた。だが、誰ひとりとして辞職したり抗議する者はいなかった。ユダヤ人は、一般の客と同様にキップを買わされた。SSは旅行代理店を通じて、各ユダヤ人の輸送キロに応じて1キロあたり40ペニヒで収容所までの片道切符を売りつけた。10歳以下の子供は半額で、4歳以下は無料だった。400人以上になると普通切符の半額の団体割引が適用された。帰りの列車は空になるが、その分の運賃は請求されなかった。SSはツケで切符を売ることもあったという。

…このドイツ人の律儀さには、頭を抱えた。悪い冗談のようでもある。

この地獄の貨車は、ハンガリーからアウシュビッツまで数日、ギリシアからは一週間以上かかったという。というのも、15トン貨車に80人から100人が詰め込まれ、一度に1000人から2000人という荷重がスピードを落としたからだ。このために移送されるユダヤ人の苦しみは長引くことになった。

ナチの収容所は、9000以上の様々な収容所があったが、主に強制収容所・絶滅収容所・奴隷労働収容所に分けられる。強制収容所には、ソ連兵捕虜、政治犯、一般の刑事犯、ロマの人々、同性愛者などが収容された。

絶滅収容所は、トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ、ヘウムノ、アウシュビッツ第二(ビルケナウ)、マイダネクの6箇所である。この絶滅収容所は、1941年6月から始まった「行動部隊」による射殺による殺戮は効率が悪く、また殺す側の負担が大きかった故に、建設が進んだものである。1941年12月には移動式のガス・トラックがヘウムノで使用された。排気ガスで窒息死させるものだが、これも効率が悪く、死体の処理をSSが不快で手間のかかるものとしたため、1942年3月から、ヘウムノ以外の絶滅収容所で固定式のガス室が建設された。

へウムノでは、ガス・トラックで15万人、トレブリンカでは75万~87万人、ソビブルでは20万~25万人、ベウジェツでは、55万~60万人、アウシュビッツ第二(ビルケナウ)では110万人(ポーランド人数万・ロマの人々19000、ソ連捕虜2000が含まれる。)が殺されている。マイダネクは、移送の経由が主だったようだが、ポーランド人を中心に36万人の殺戮が行われた。

奴隷労働収容所とは、1942年の戦況の変化とともに、戦争のための強制労働が必要となった故に建設された。消耗品と見られていた収容者は劣悪な条件下で1日に11時間も働かされ、マウトハウゼン収容所では43年の死亡率は40%という高率だった。これらの労働力を使用した企業は、フリック、イー・ゲー・ファルペン、BMW、ジーメンス、メッサーシュミット、ダイムラー・ベンツ、クルップなどである。アウシュビッツの第三収容所は、イー・ゲー・ファルペンの石油化学コンビナートで強制労働を強いていた。働けなくなった者は第二収容所(ビルケナウ)に送られた。

…強制収容所では、ドイツ人の同性愛者はピンクの三角印をつけさせられた。(彼らは組織的殺戮の対象にはならなかったが、手荒な扱いや他の囚人から虐待を受けたという。)後、このピンクの三角はゲイの権利運動のシンボルとなった。最近の同性愛を巡る世界的な傾向から見ると、まさに隔世の感がある。こういう事実も記しておきたい。
ちなみに、調べてみると左翼政治犯は赤、一般的な犯罪者は緑、ロマの人々は黒(反社会的または無能とみなされていた。)、エホバの証人は紫であったという。(画像参照)
http://www.ushmm.org/outreach/ja/article.php?ModuleId=10007754

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