2015年4月5日日曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート3

シャカ王
http://zar.co.za/shaka.htm
「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)の昨日のエントリーの続きである。今日は、ちょっと小タイトルをつけてみた。

ムフェカネ
サヘル(サハラ南縁)でもイスラムの聖戦が行われている時期、南部アフリカでムフェカネ(あるいはディフェカネ)と呼ばれる大変動があった。戦闘的なズールー王のシャカが台頭し、戦乱が広がるのである。この戦乱で、多くの避難民が発生、大混乱になる。この緊張した状況の中、イギリスは1884年から10年間の間に自らの植民地を形成する。ムファカネが引き起こした重大な結果は、一部の支配者による機微な指導力でアフリカの黒人の連帯が生まれたことで、スワジランドは、ムファカネから無傷で、白人支配を受けながらもまとまりを維持する。難民の逃げ場となったバソト王国はこの時代に生まれ、後にレソトとなった。

シエラレオネとリベリアの相違
奴隷貿易をイギリスが禁止するようになって、イギリスは拿捕した奴隷船の人々をシエラレオネのフリータウンで釈放した。したがって、フリータウンは最初のパンアフリカ社会となった。その中でもマジョリティだったのが、ナイジェリアに多く住むヨルバ人であった。彼らはヨーロッパ要素(宣教師の教育)の混じった新しい文化と言語を作り出し、クレオール社会を形成した。彼らは新たな合法的貿易の仲介者となったし、その教育の成果を生かすべく故国に帰国した者も出た。
一方、リベリアは米国から解放された奴隷たちが入植して生まれる。入植者たちは、いったんアフリカとの絆を絶たれた世代であり、現地のアフリカ人とは切り離されたアイデンティティと文化をもっていた。米国の支援のもと、現地のアフリカ人を支配する。

黒いコメ
アメリカ大陸産の食料作物が世界に拡大した「コロンブスの交換」は世界史でも有名であるが、アフリカの食料作物も他大陸に伝播している。それはコメである。当時、コメの生産は東アジアと西アフリカで盛んで、奴隷としてブラジルや米国に連れて行かれたアフリカ人によって栽培された。これは西アフリカのグラベリマ米である。初期のコメ栽培は自家消費のために行われたらしい。ブラジルや南カロライナで河口の満ち干に適合させた西アフリカの技術(マングローブ・ライス)が行われたという。

…こういう細かな補足事項が面白いし、嬉しいのだ。

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