2015年4月4日土曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート2

ハイレ・セラシエ
http://www.steelpulse.com/culture.shtml
「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)を通勤時に、三色ボールペンで線を引きながら読んでいる。面白くて仕方がない。印象に残った内容をまたエントリーしたい。今日は、「アフリカ経済と世界史」の部分からである。

アフリカでは家畜の飼育が作物の栽培に先行した。牛を含む家畜は中東から地中海沿岸にもたらされ、南のサハラに入りさらに広がっていった。その後も大陸外から多様な家畜が流入する。サハラがオアシスを除いて約4000年前に定住できなくなると、かつてサハラで栽培された小麦や大麦が生育せず、ソルガム、ミレットなどとアフリカ在来種のコメが、ナイル上流やチャド湖周辺で栽培されるようになる。さらにこれらの地域で綿花・ゴマも栽培されるようになる。

エジプトで著された初期のキリスト教の著作はコプト語で書かれており、ギリシア語版聖書に先立つものであった。また北アフリカ、ナイル渓谷とクシュ、エチオピアにはユダヤ教徒が暮らしていた。紀元1世紀、エジプトの人口の約15%はユダヤ人だった。またエチオピアのユダヤ人は高地に長く居住しており、クシュ語の変形を使用して自らの礼拝式(典礼)を発展させてきた。アフリカにおけるユダヤ人の存在はキリスト教が広まる一要因になった。

…エチオピアの歴史は、シバの女王とソロモン王の神話をもっている。彼らの息子であるメネリクがもたらした「契約の箱」は、現在でもユダヤ教とキリスト教、イスラム教の共通する聖なる遺物であり、ソロモンの血統と契約の箱があることで、ゼオン(天のイスラエル)と呼ばれた。このアクスム王国、さらにその流れを引くソロモン朝は、途中何度か政権を失うが、1974年のハイレ・セラシエ皇帝が国外退去するまで続いている。日本の神道と皇室の関係を彷彿とさせるような話である。

アフリカ東岸には8世紀から9世紀にかけて、サンゴ石でできた都市があった。この都市を作ったのはアラビアからの移民だと言われてきたが、古代ギリシア時代からここに定住し、アラブ人と交易していたパンツー系の人々であった。20世紀前半の欧米の研究者たちの偏見であったようだ。

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