2012年2月13日月曜日

聖餐のパンとブドウ酒の話

ディーリック・バウツ 聖餐の秘跡
佐藤優の「はじめての宗教論・左巻」を、相変わらず読んでいる。主なる内容は、非キリスト者である私などには難解なシュライエルマッハーの神学の講義なのだが、時々内容に関係して横道にそれる。それが、なかなか面白いのだ。
日本のプロテスタント教会の中で、今激しい議論になっているのは、聖餐のパンとブドウ酒を洗礼を受けていない人に対して行って良いのかということらしい。佐藤優は、儀式は信者だけに限られると言う立場をとるのだという。重要なことは、この聖餐のパンとブドウ酒という象徴のもとで、キリスト教が歴史的に何を行ってきたかということをきちんと押さえることだと、佐藤優は言う。

カトリック教会では、洗礼を受けていない人にはパン(ホスティア:イースト菌が入っていないのでウエハースのようなものらしい。)とブドウ酒を飲み食いさせることは絶対にありえないそうだ。これは、実体変質説という考えに基づいていて、パンはキリストの本当の身体、ブドウ酒は本当の血に変わっていると考えるからである。パンをもって帰ろうなどする輩がいれば、キリストの身体を穢そうとする者かもしれないので、神父は羽交い絞めにしてでも持ち帰りをゆるさないのだという。またカトリック教会は、ようやく最近になってブドウ酒を飲ませるようになった。12世紀あたりから、信者の手が震えてこぼしてしまうおそれがあったので、ブドウ酒を出さなくなり、信者の方も冒瀆にならないようブドウ酒を辞退するのが普通になっていたらしい。

英国国教会(アングリカン)では、ブドウ酒を大きな杯に入れて出すそうだ。カトリック教会と同じく実体変質説をとっているので、飲み残すことはできない。最後に残った分は牧師が飲み干すらしい。参加者の読み違いがおこると、無茶苦茶大変らしい。

改革派(カルヴァン派)の中でも、ツヴィングリの系統は、パンとブドウ酒は単なるシンボルと考えている。(象徴説)それに対してカルヴァンは、信仰をもって口にしないとお腹をこわすという立場だった。信仰があれば、それは自分の血となり肉となる、そういう形でキリストの血と肉を実感するのだと言ったらしい。一方、ルターは佐藤優によれば、もともとずるいから混合説をとる。半分はパンで半分はキリストの肉、半分はブドウ酒で半分は血がブレンドされているという解釈だとか。

倫理の教師から見れば、なかなか面白い話である。

追記:アフリカネイションズカップは、ザンビアが勝ったらしい。今頃大騒ぎだろうなあと思う。(ザンビアの桐生先生、現地報告を期待しています。)

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