2023年5月31日水曜日

キルクーク 資源の罠

https://mainichi.jp/articles/20171017/k00/00e/030/166000c
クルディスタンといえば、昨日記したように、地理で教えるイラク北部のキルクークの地名が浮かんでくる。「クルド人を知るための55章」には、この辺の詳しい記述があって興味深い。

WWⅠ後、オスマン帝国のモースル州をイラクに組み入れたのはイギリス。この辺の悪どさは流石である。当然ながら、ここの石油資源はイラク建国後もその支配下に置かれた。(この本に記載はないがBPかシェルだろうと思う。)1970年代の資源ナショナリズムで国有化され、名実ともにイラクの富となったのだが、1960年代からクルドの反政府ゲリラが活発化しており、イラク政府はクルドを油田地帯から遠ざけようと、県境を変更したり、クルド人地区を他県に併合したり、南部に強制移住させたりした。これによって石油施設で働くクルド人は激減した。またパイプラインは1977年に敷設されたが、クルド人居住区を迂回させている。1970年には、政府とクルド政党の間で自治合意が結ばれていたのだが、キルクークを自治区に含むか否かで数年後に合意は破綻する。まさにキルクークは、迫害の象徴であったわけだ。

反政府ゲリラ活動が続いていたこともあって、キルクーク以北のクルド人居住区での資源開発は進展せず、1990年代にイラク軍が撤退し、事実上の自治区になってからも、技術や資金のないクルドが本格的開発を行うことはできなかった。製糖工場のパーツで簡単な石油精製施設を作り日産3000バレルの生産がやっとだった。当時のイラクの(南部の)石油生産量はイラク戦争直前の2002年でさえ日産200万バレルで、クルドの石油生産は無視できるほどのものだった。

2003年のイラク戦争後、フセイン政権が崩壊、民主化プロセスの下2005年に連邦制の新憲法が制定された。翌年、新石油法(政府が一元的に国内の天然資源を管理する)で、アラブ政党と自治区内の資源開発の最終決定権を主張するクルド政党は対立、暗礁に乗り上げる。クルド自治区は、地域法として自らの石油法を制定、地方分権を定めた憲法を盾にして国際石油会社へ猛烈なロビイングを開始した。外資を締め出した中東地域にあって、なし崩し的に既成事実化した。シーア派政権に変わったイラクと関係がこじれていたスンニー派のトルコ政府は、裏庭で算出される石油・ガスは魅力的であったし、イラク・クルドと良好な関係をもつことは、トルコ・クルドのゲリラ(PKK)取締にも有効と判断、従来のパイプラインにクルドのパイプラインを接続させた。自治区はついに、イラク政府に頼ることなく採鉱・開発・生産・輸出の一連の主導権を得たのである。

イラク政府は、トルコへのパイプライン輸出開始と同時に制裁措置として自治区への予算配分を停止した。自治政府の想定では、日産100万バレルに達し、予算配分なしても十分やっていけると判断していた。だが、国際市況で1バレル$100を超えていた価格は2014年に$50を割り込み、しかもイスラム国がモースルを陥落させ自治区に進撃を開始。安定したビジネス環境は吹き飛んでしまう。輸出量は日産20万バレルにまで落ち込んだ。しかも、イスラム国によるアラブ人難民が押し寄せ大混乱となる。幸い、べシュメルガがイスラム国との戦闘でキルクーク油田を接収し日産60万バーレルまで引き上げたが、今度はイスラム国との戦闘ということでイラク軍がキルクークの街と油田を奪還した。その後は、パイプラインは維持されているものの、輸出量は半減し、石油を引き渡すかわりに予算配分を再開するようとの交渉が行われ、難航している。

イランのクルディスタンにとって、キルクークの油田はまさに天然資源の罠であり、紛争の罠であったわけだ。

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