2023年5月14日日曜日

アリー・アビー・ターレブ

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「シーア派イスラーム-神話と歴史-」では、かなり詳細なイマーム論が掲載されている。ムスリムの中でも、ウラマーなどの法学者、世俗的知識人、一般信者の三種にわけて、初代イマーム(第4代カリフである)アリー像が語られている。捉え方が違うというわけだ。今回のエントリーは、まずアリー(アリー・アビー・ターレブ)について見てみようと思う。

アリーは、ムハンマドと30歳ほど離れた従兄弟(ハーシム家一族)であり、ムハンマドに養育され、寝食を共にしていた。最初の男性の信徒(最初の信徒は妻のハディージャ)である。ヒジュラの時の戦士として活躍、イスラム暦2年には娘(ファーティマ)の婿(アリー21歳、ファーティマ15歳)となっている。ムハンマドの後継者としては申し分なかったのだが、ムハンマドの死の直後、アリーら親族が、遺体の洗浄など葬儀の準備をしている間に、初代カリフとして、アブー・バクルが決まってしまったという事実がある。結局(ムハンマドの死の時は、年齢が若かったと見られた)アリーは、第4代カリフとなるのだが…。

ウラマーによるイマーム・アリー像は、ムハンマドから、直接、公然と後継者としての承認を受けた、あるいは暗黙のうちに承認を受けた事に対して最重要視していること、その絶対的信仰が中心となっている。イマームとは、ウンマ(共同体)の政治、宗教のみならずあらゆる問題に対する指導者であり、預言者の代理および後継者としての機能を果たす。イマームが存在しなくてはならない理由は、共同体が常に過誤を犯す傾向があるからで、これを矯正する必要があり、イマームがシーア派の共同体に送られているのは神の恵みだとされる。イマームの資格は、信者・共同体のすべてのことについて最もよく知っている、最も学識のある者でなくてはならない、また預言者同様無謬性を持っていなければならない、さらにハーシム家の者でなければならないという3点が挙げられ、この他に勇敢であること、完全なる資質を保持し、勇気・寛容・男らしさ・慈愛を持っていること、肉体的欠陥がないこと、性格的欠陥がないこと、そして奇跡を行う能力があることが列挙されている。

前述の「ムハンマドから、直接、公然と後継者としての承認を受けた、あるいは暗黙のうちに承認を受けた事」については4つの事件(ムハンマドが親戚縁者に対し最初の宣教をした時、誰も耳を貸さなかったが、10歳ばかりのアリーのみが入信したこと、カイバルの遠征時とタブーク遠征時の2回、「汝と余の関係はアロン(モーセの兄で出エジプトの協働者)とモーセの関係の如き」とムハンマドが述べたこと、ガディール・フンム事件の時公然とアリーを後継者だと説教したこと)が(シーア派・スンニー派両派の)ハディースに記されている。

世俗的知識人のイマーム・アリー像は、欧米で教育を受けた知識人は、合理主義的立場から旧来のイスラム的価値観を重視・再評価・再解釈を試みている。アリーを知的、社会的、人間的知性の典型をして把握し、彼によって開始されたシーア派の真髄を現代に合致した形で理解する必要性を説いたりしている。

一般信者のイマーム・アリー像は、様々な俗信的要素および土着的要素が濃厚で、宗教的感情の表現が表現がしばしば極端にまで露骨である。たとえば、タァーズィーエは、一般信者の宗教的情熱が最も生のまま発言する。これは、3代目イマームのホセイン殉教がモチーフだが、アリー一族の悲運が最大のテーマである。タァーズィーエは、本来死者への哀悼の意味だが、19世紀後半期にモッハラム月(1月)最初の10日間に劇場で受難劇が演じられ、10日目(アシュラー)にクライマックスを迎える。これが、PBTの(スンニ派の)学生たちが、シーア派はクレイジーだと言っていた、上半身裸で互いをムチなどで打ち合い血を流すアシュラーである。…なるほど、たしかにすごい宗教的情熱だと思う。

イマーム・アリーは、様々な人の間で多様に受け止められているが、嶋本氏は、「真に影響力をもつ宗教は、単なる思弁の産物でも、また露骨な感情流出の結果から生まれたものでもない。熱烈な信仰や禁欲主義は、時として極端で過激な党派主義に陥ったり、あるいは社会からの逃避をもたらす。また逆に、宗教を冷徹な理性の力で理解し去ろうとするのは愚の骨頂と思われる反面、宗教に確固とした理論的枠組み、組織化がなければ、その宗教を永続化させることはできない。教義とそれに基づく社会活動の規範としての宗教は、合理性を持ち、それゆえに永続性を持つと考えられる。両者の間に程よい調和がなければならない。現代シーア派の思想家が、ロゴスとパトスの両面から宗教を理解し、アリーを両者の体現として把握している点は、宗教的シンボルを以上の脈絡で理解する際、非常に示唆的であると思う。」というハサン・サドルの見解は示唆に富んでいると述べている。…たしかに。

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