2023年5月5日金曜日

イスラム教と国家 考

「おどろきのウクライナ」(橋爪大三郎・大澤真幸)には、国家の成立には、「普遍的なもの:国民が信頼している思想・宗教」が、権力者や政府を認証する必要があるという、非常に社会学的な話が出てくる。中世のカトリックが専制的な王権の後ろ盾となった歴史的経過から来ている。ホッブズのリヴァイアサンには、国家は教会にかわり世俗的な権力をもつものという概念があり、それはリヴァイアサンの正式名称「リヴァイアサン、あるいは教会的及び市民的なコモンウェルスの素材、形体、及び権力」にも表れており、国家政府は「法人」とされている。現在もこの社会学的な国家の構造は生きていて、公定教会である英国国教会を普遍的とするイギリスやカナダ、同じく公定教会であるルター派を普遍的とするドイツ、カトリックを普遍的とするイタリア、多くの宗派に分かれているがプロテスタント教会をを普遍的とするアメリカ、カトリック国でありながら政教分離したフランスは哲学を普遍としている、といった具合である。これらの民主主義国家は、当然ながら、法の支配や人権思想、普通選挙制による国民国家である。(本年4月6日付ブログ参照)

中国には、天による易姓革命的な普遍性があり、権力を支えているが、民主主義国家ではない。ロシアもまた、正教が普遍性を保障しているが、民主主義国家ではない。(ソ連時代は、マルクス=レーニン主義が普遍性を保証していた。)これらの国家は、普遍性と権力が一体化あるいは歴史的に並立してきた。故に民主主義が確立していく土壌がないといってよい。面白いのは日本で、普遍性は、岩倉使節団による熟慮の末、欧米のキリスト教を排して、天皇制に置かれている。(欧米の普遍性に気づいた事自体が明治人の優秀さを示している。)戦前の一時期、天皇機関説が問題視されたが、普遍性と権力は分離されている故に、日本では民主主義が成立し、近代国家化し、先進国の仲間入りができているといえよう。

さて、今日の本題は、イスラム教の国々の場合である。「おどろきのウクライナ」では、イスラム教に「法人」という概念がないことが指摘されている。よって、普遍的なイスラム教はあれども民主主義的な政府は存在できないわけだ。この辺をもう少し考えたくて、「一神教と国家」(中田考・内田樹/集英社新書)を読んでいる。中田氏と内田氏の対話の中で、イスラム教徒は、基本的にノマド(遊牧民)であることが出てくる。遊牧民には、なにか問題が起こった時、農耕民のように悠長に議論している暇がない、決断力のあるリーダーが「他の人達には見えていないもの」を個人的慧眼によって洞察し、おのれの部族を引き連れていく必要がある。まさにモーセが羊の群れを牧者が導いていく姿に擬せられるというわけだ。内田氏は、プロテスタントで「牧師」という言葉を使うことに注目している。中田氏は、アラビア語で、「民」は”ライーア”、文字どおり「羊の群れ」という意味だと答えている。このようなノマド的伝統がイスラム国家で民主主義を育むことを拒んでいると思われる。イスラム教国の王国・首長国がその端的な例である。

ただし、何度もこのブログで記しているが、マレーシアは少し事情が異なる。まずノマド的な風土ではないこと。イギリスの植民地支配の影響を強く受けていることから、独立時に民主国家としてスタートした。だが、このようなイスラム的伝統は、憲法上、(5年に一度スルタンかの選挙で選ばれる)国王に行政権が付与されているところにわずかながら見える。多分に儀式的・形式的ではあるが、元宗主国のイギリス国王には行政権はない。それ以上に、各州のスルタンは宗教的指導者であり、その権威のほうが重要であるようだ。よって、マレーシアは、イスラム教国家の中では珍しい折衷した国家システムを持っているといえる。

今大統領選挙で話題のドルコも、オスマン帝国崩壊後は政教分離を明確にして民主国家となっている共和国らしい共和国である。イランは”イスラム”共和国であって、事実上政府は、普遍的なイスラム教シーア派と合同している。イラクもシーア派が多数派だがスンニー派のフセイン政権が以前統治しており、この普遍性の分裂が国民国家化をかなり困難なものにしている。(最大の普遍性の分裂状況にあるは、現在崩壊寸前のレバノンだともいえるだろう。)イスラム教国家といえど、様々である。

この普遍性+法人政府=民主国家という方程式、たしかに有意義だが、意外に完全にあてはまる国が少ない欧米的価値観のように思えるのだが…。

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