2022年7月20日水曜日

和魂漢才と元和偃武

松岡正剛の「国家と私の行方」、第3講から後は、世界史と日本史の話が中心となる。今回のエントリーは、第4講の日本と中国の関係について記しておきたい。
松本正剛は、日本のデュアルスタンダード(あえて自覚的という意味合いを含め、双方向に行き交いができるダブルスタンダードの意味)である和魂漢才について、「日本は古来以来すっと中国的なものをつねに一方の軸において、他方で日本的なるものをつくってきました。」と言う。

中国でスタンダードだった仏教というシステムを持ってきて、それを一方で鎮護仏教という国の軸に置きながら、他方では寺院と神社を混ぜたような神宮寺をいっぱいつくり日本風の編集をしてきた。天皇の称号も8世紀以後からは、神武天皇まで遡って、漢風諡号(しごう)と和風の諡名(おくりな)の両方をつけた。ミマキイリヒコは漢風諡号では崇神天皇という具合である。現在も同様で、明治天皇:睦仁の如くである。このスタートは、壬申の乱を挟んで、天智天皇(漢風)と天武天皇(和風)の兄弟天皇が成立して以降で、古代国家のごく初期から、「和漢」という対比性を天秤にかけて「漢」を意識しながら様々な「和」をつくってきた。内裏においても、政治を行うフォーマルな大極殿は中国式建築、カジュアルな生活の場・清涼殿は和式の高床式というふうに。古今和歌集ではその序文に真名序(漢字)と仮名序を並立させている。日本は常にフォーマルは中国にある認めていた。華夷秩序の中で、日本は挑戦やベトナムのような冊封国家にはならなかったものの、怖れていたのである。ところが、ちょうど徳川幕府が確立するころに明王朝がスローモーションのように崩壊していった。非漢民族である女真族による清王朝の登場である。

これをチャンスと見た家康は、中国離れのシナリオをつくる。家康は、藤原惺窩や林羅山に命じて、中国的な国家システムとイデオロギーでつかえそうなものは導入した。身分社会故に儒家はぴったりである。宋の時代に一大編集がされて新儒学というべき朱子学(君主と臣民がどのように国をおさめればよいか、その為ににどんな学習(=四書五経)をし、そんなふうに生活倫理をまればいいのかを説いている。)がその最たるもので、これを日本独自の儒学を確立させるのである。伊藤仁斎、荻生徂徠、中江藤樹、熊沢蕃山、山崎闇斎、山鹿素行らの活躍はこのムーブメント上にある。一方で契沖、賀茂真淵、本居宣長らによって国学が確立されていく。

ところで、この時期、清王朝に屈することを拒み、国家の海外経営を考えていた朱舜水(しゅしゅんすい)という人物がいる。長崎に招かれていた。この人の噂を聞いた徳川光圀が江戸に招き、日本の歴史の正統性を学ぶことになる。当時の幕府の藤原惺窩や林羅山の記した歴史書は余りに朱子学そのままで日本の実情や歴史に合わないと考えていた光圀は、大日本史の編集方針を朱舜水に託すのである。こういう逸話は実に面白い。これもまたデュアルスタンダード的編集であると言えよう。

少し時代が戻り、デュアルスタンダードではないのだが、家康の様々な処置で、徳川日本は「元和偃武」(げんなえんぶ:国内の武力による内戦を一切認めなかったということ)を迎える。武道とか剣道は元和偃武によって生まれた。西軍の敗北でたくさんの浪人があふれたが、仕官のために建に励むもののその使い道がない。むやみに刀を振りまわすと武家諸法度にひっかかるので、技の型っを磨いたり、内面に向かった。しかしそれがかえって新たな精神性うあ日本美学を陶冶することになった。松本正剛は、これを日本文化における「負のはたらき」と見ている。日本の伝統文化には、この葉隠や五輪書のような武士道(明治以降に作られた語であるとのこと)や枯山水、侘茶や、鉄砲の禁止から花火が生まれたりといった具合である。この「負のはたらき」という視点もまた面白い。

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