2022年6月23日木曜日

桜田門外の変 吉村昭3

https://hitopedia.net/%E6%A1%9C%E7%94%B0%
E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89/
さて、実際のところ桜田門外の変はどういうふうに行われたのか。吉村昭の歴史小説は、史料をもとに書かれてあるのでリアルである。

なにより、その作戦であるが、まず、「武鑑」という各大名の家紋などの特徴が書かれたパンフレットを手に待機するというのがある。当日は3月3日の節句でほとんどの大名が登城する。武士も町民もその登城を見ることが楽しみの一つであったようで、いかにも見物人ぽく見せるというカモフラージュをしていた。ちなみに彼らは町人の格好をし、風呂敷に大小を入れ携えていた者も武家の格好で大小を指していた者と様々であったようだ。次に、こういう登城の場合、井伊の籠を警備する者は剣術に長けた者が多い。水戸でも剣客はいたが、4・5人で組をつくり、1対1の戦いを避けるという赤穂浪士と同様の戦略をとっていた。さらに、先供(先頭)に切り込み、籠の脇の強者を先頭の方に引き寄せ、籠の守備を手薄にした。両脇(堀側と他の屋敷側)に襲撃する2組の本隊を起き、先頭に騒動が起こり、籠の警備が薄くなったタイミングを見計らい、決められたスターターが短銃で籠を撃つ。これを合図とし、本隊が籠に迫り井伊の首級を取る。この首の検視役も予め設定していた。最後に、負傷したものは自刃、もしくは閣老の屋敷に向かい自訴(全員がその書状を持っていた)する。負傷していないものは、京に向かい薩摩藩の上京と合流する。練りに練った最高の作戦であるように思える。
全員が抜刀し向かったわけではない。見届け連絡をする者、正式な義挙を訴える斬奸趣意書を老中に提出する者と、全体の指揮をしていた関鉄之介(彼がこの書の主人公である)などがいた。

思えばかなりの少人数での決行であるが、大成功を収めたのは、決行当日は3月というのに大雪であり、徒士(かち)たちは雨合羽を着ていたので、突発的な動きが鈍ること、しかも刀の柄に袋をはめ防水していたこと(抜刀に時間がかかる)が天佑であったと思われる。やはり、赤穂浪士といい、桜田門外の変といい、大雪は主君の仇討ち(桜田門外の変は事実上の…であるが。)には天佑なのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿