2022年6月20日月曜日

桜田門外の変 吉村昭

「アフリカ希望の大陸」を少し置いて、先日市立図書館で借りた吉村昭の「桜田門外の変」(上・下)を読んでいる。長い通勤時間、併読を常としている私なのである。今日のエントリーは、その上巻の半分くらいを読んだ時点での書評となる。

この「桜田門外の変」、井伊直弼が暗殺される事件であるわけで、当然水戸藩がその中心舞台である。水戸藩は、幕末維新史の中で、水戸学を中心に先駆け的な藩であったが、実のところあまり活躍していない印象がある。これは、徳川斉昭のキャラに負うところが極めて大きい。この本で、斉昭が次男で、兄に世継がなかったが故に藩主となったことを知った。幕末史には詳しいはずなのに不勉強を恥じた次第。ちなみに、井伊直弼も山内容堂も運命の悪戯的に藩主になっている。あえてこういう個性的なキャラを登場させる幕末史は実に面白いと思うのだ。

さて、彦根藩には、現在の栃木県佐野市に飛び地があったそうで、他の藩と共に水運で利根川や江戸川・隅田川を利用していた。川船奉行の統制下にあったが、御三家の水戸藩の船は例外で丸に水の字の船印を立てて自由に運航していた。文化5年に、仙台藩と彦根藩の船が接触した事件をきっかけに、水戸藩の船と暴力事件があり、以来犬猿の仲になっていた。溜間詰筆頭大名井伊家のプライドがあったようで、そもそも水戸藩と彦根藩は対立していたわけだ。これも初めて知った新事実。

斉昭という人物(以後烈公と記す)は非常に個性の強い人物で、彼が藩主に鳴ったおかげで、そもそもお家騒動が起こる。門閥派をしりぞけ改革派を用いた。言ってること、やっていることは、領民から見ても正しい。だが、押しが強すぎて敵を作るのだろう。まあ、烈公とは良きネーミングである。黒船来校以前から、攘夷というテーゼを掲げ海防の重要性を説いてきた。水戸学の尊王と結びつき、ほとんど幕末の一時期、ゼロ記号と化す尊王攘夷のカリスマである。

しかし、幕府はそう簡単に動かなかった。家定の元、総大名を集めハリスの通商条約締結要求を決した後、老中・堀田正睦(まさよし)は、烈公への報告に、川路聖謨(としあきら)と永井尚志(なおゆき)を烈公のもとにつかわせる。その際、烈公はどんでもない暴言を吐くのである。「備中(堀田)、伊賀(松平忠固)は切腹せよ、ハリスの首を刎ねてしまえ。」その後、一橋慶喜(烈公の第7子)は堀田にとりなしを頼まれる。水戸藩邸で、烈公に諫言し、堀田への詫び状を書かせ、堀田のもとに送りつけた。

その後、川路・永井らを一橋家に呼び饗応した後こう言うのだ。「事情は父より聞いた。父は年も寄って性急になり耳も遠く、物事がゆきちがうことが多くなっている。川路、永井両人が参った時も、日頃、父の考えていることは余りに違う相談であったので、気分を大いにそこねて自制心を失い、言いたいことを言った由。幕府からの相談を荒々しくはねのけ無視したのは、不敬の罪をまぬがれぬ。両人が帰った後、父は、両人へはもとより備中守にも無礼をしたと、いたく航海なされたとのこと。備中守へは詫び状を出した。私からも詫びたい。」その後慶喜は唐織の能装束五点を部屋へ運びこませた。見事な裝束であった。「これは一橋家に伝わる由緒ある品と聞いている。今どき能など楽しむこともなく、この装束も用のないものだろうが、これを取らせるから陣羽織、小袴などに使ってもらえれば、この装束も生きるであろう」さらに慶喜は言葉を続けた。「父が、この度、過ちをおかしたことについては弁明の余地はないが、父が尊皇攘夷の持論を唱え続けてきたことは広く世に知られ、各々がたも知っているとおりである。その持論は古めかしく、この能装束と同じように今日の用に立たぬと思っているかもしれぬ。しかし、この古い装束も陣羽織などに使用できるように、父の古風な激しい論も、考えようによっては、それほど古めかしいものではないと思う。このことは皆もよく心得て欲しい。」

この慶喜の父を想う情と頭脳の明晰さは、広く幕閣に伝わったというお話。なかなか良いではないか。私は、慶喜は、毀誉褒貶が多々あるが、一流の人物であると思っている。

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