2014年3月2日日曜日

昭和天皇 第五部 読後メモ

「昭和天皇第五部」(福田和也著・文春文庫)を読み終えて少し経つ。立花隆の「天皇と東大Ⅲ」を読んだ後に読み始めたのだが、重なる部分も多く、しかもこちらは様々な当時の人々の話が編年的に登場するので、比較的軽く読める。さて、第五部は、いよいよ日米開戦直前までの話である。2冊を対比的に読んでも、昭和天皇の軍部・政権首脳へのいらだちはかなりのものであったと思われる。昭和天皇は、立憲君主としての意識の強い方だったから、下問するカタチで軍部の暴走を止めようとされるのだが、軌道修正が出来ぬまま、どんどん泥沼に嵌っていく。

賀屋蔵相の話が面白い。(P66)賀屋は海軍と正面切って渡り合う。上海事変の際、海軍が陸軍ほ派兵を養成閣議にかけられた時のことだ。陸軍を派兵すれば戦線が拡大するばかりでなく上海に権益をもつ英米を強く刺激することになる。賀屋は「派兵するぐらいなら、居留民を引き上げさせた方がよほど安上がりです。現地に残してきた財産等は政府が保証してやればよろしい。戦争をするより脆財政的にも外交的にも格段に賢明です。」石原莞爾が同様の論評を張っていることを知悉した上での発言だった。近衛文麿首相を見つめたが表情を変えない。「金がないなら借りればいいではないか。日露戦争は外債でやったんだ。」「いったい誰が貸してくれるんです。」「アメリカだろう。日露のときもそうだった。」ここまで魯鈍な人物を大臣にしていいのか、(高橋)是清爺がこんな与太を聞いたらどれほど嘆くだろう、と痛憤しつつも賀屋は丁寧に言った。「アメリカが貸す訳がないではないですか。満州事変この方、アメリカは中国の味方ですよ。蒋介石にはいくらでも貸すでしょうが、日本の債権なんて引き受けてくれる訳がないでしょう。いいですか。上海で戦争をするような国力はありません。即刻撤退してください。」正面から米内海相が賀屋を睨んでいる。「帝国海軍は撤退などしない。速やかに陸軍と提携の上で、中国側に一撃を加えて攻勢を挫き早期に和平を実現する。」米内は、拳を突きつけるようにして腕を賀屋の方にあげた。やれやれ、海軍はいつもこれだ。賀屋は嘆息した。海軍の連中は普段紳士面をしているクセに、いざとなると無頼漢なみの事を平気でやる。普段から腕まくりをしている陸軍の方が正直でよい、というのが賀屋の受け取り方だった。こうして意味のない海外派兵をして、その戦費を捻出するために国家財政を危機に陥れる。
…昭和天皇は、米内の上海作戦についての上奏の時、「従来の海軍の態度は信頼していた。このうえは感情に走らず大局に着眼し過ちのないようにせよ。」と申し渡した。

ゼロ戦の試験飛行の話もでてくる。ゼロ戦の試作機はなんと牛車で飛行場へ運ばれたのだった。日本の国土は平野部はほとんど農地になっていて飛行場は人里離れた荒野を拓いたもので、いきおい道は悪路になるからである。「それが日本の国力ってもんだ。ドイツやアメリカのようにはいかないさ。」と言うのは堀越二郎である。…このシーンは「風たちぬ」にあるのだろうか。私はまだ見ていないのでわからないが。(P186)

「戦陣訓」の作成過程の話。(P290)出発はシナ事変であった。日清・日露での戦場では多少不祥事はあったが、事変では桁違いの非道犯行が発生した。上官暴行、戦場離脱、放火、強姦、略奪…。一部では軍規が弛緩し収拾がつかいない有様になっていた。軍法会議にかけられた者だけでも数万におよんだ。そのため教育統監部は軍人勅諭を補足する道徳訓を作ろうとしたのである。多様な召集兵に対応するため、各方面の意見も聞き作成されたという。意外な人物名も登場する。和辻哲郎と島崎藤村。彼らも意見を述べているらしい。この中心となったのは今村均中将と白根孝之中尉。彼らの対話が載っていた。「(今村)閣下は、師団長時代、宿舎の従卒に、慰安所になぜ行かないか、行くようにと命令されたと聞きましたが。」「命令はしませんでしたが、行くように、なぜ行かないのか、とは言ったことがあります。」「後方では、どんなことも言えるけれど、戦場ではそうはいかない。正気を保つだけでも大変な努力が必要になります。そのためには、慰安所は必要だ。人間であり続けるためには。まあ、私は慰安所という言葉は好きではありませんが。列国のように特殊看護部隊というような名前にするのが、好ましいと思うのですが。」

…戦争というものの愚をいやというほど感じる第五部であった。

最後の慰安婦の話について、愚を愚として認めない、認めたくないというところに大きな問題があるのではないかと私は思う。国家としての戦争の是非ではなく、人間としての是非として考えた時、愚を率直に認めることが必要だと私は思うのだ。最近の「与太」も、そういう抽象的な概念である国家としてののスタンスと(個人としての)人間としてのスタンスを取り違えているような気がする。愚を愚と認めることは勇気がいる。勇気をもって認めるのは、(たとえ政治家であったとしても)ひとりの生身の人間であるべきだ。責任を「多数の一般名詞」に転嫁可能な国家とした時、生身で苦しんだ被害者も生身ではなくなる。そこに大きな「痛憤」が生まれるのは当然である。また他国も同様だったという弁明は国家としては有効かもしれないがが、生身の人間同士としては決して有効なロジックではない。愚が、愚を拡大再生産していく。地球市民たらんとする者は歴史に大いに学ぶべきだ。

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