2025年9月4日木曜日

竹田青嗣氏の陽水文芸批評

「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第15 回目というか、最終のオマケ的エントリー。最後の方で竹田青嗣氏が井上陽水の文芸評論を書いていたことが判明したので、井上陽水について、である。

上記画像の『陽水の快楽』だが、当然私は読んでいない。この本のレビューを見てみたが、かなり哲学的な内容であるようだ。「拓郎・陽水・かぐや姫」の世代として、竹田氏が拓郎ではなく、またかぐや姫ではなく、陽水を好み、文芸批評として選んだことは十分に理解できる。

昔々、商業高校勤務時代にサッカー部の指導をしていただいたM先生が、陽水の「傘がない」を題材として国語の授業をしておられたのを思い出す。竹田氏はこの「傘がない」については、五行くらいしか書いていないらしい。陽水の初期のプロテストソング的な名曲であると思うのだが…。

陽水には名曲が実に多い。私の陽水・ベスト1は、「ワカンナイ」である。これは、沢木耕太郎のエッセイ『バーボンストリート』に出てくる。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩の内容を陽水が沢木耕太郎に電話で聞くところから始まる。詩の内容を伝えた沢木だったが、これが歌になったのが「ワカンナイ」である。下記URLで聞いてみて欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=i1VF5AU3yYg

宮沢賢治を揶揄しているような歌詞ではあるのだが、私は2番にある「南に貧しい子供がいる」(南という語彙で途上国を表現している)「東に病気の大人が泣く」(当時の東は社会主義圏である。)の表現に震えた。そして「今すぐそこまで行って夢を与え、未来の事なら何も心配するなと言えそうかい?」と続く。シュール(超現実主義)なようで、全くシュールではない。

この「ワカンナイ」について、ネット上で解説しているページ(前編と後編)があって一読してみた。

https://note.com/vast_moose217/n/n17eb46155356

https://note.com/vast_moose217/n/ne3e101cc44e4

ここでは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が、彼の死後全く異なる方向に受け取られてしまったという論が展開されている。陽水も、時代の違いを踏まえながら、その悲哀を歌っているのではないかというわけだ。なかなか興味深い考察である。

私自身は、ふと幼い頃に見た「エデンの東」のシーンを想起した。真面目で慎み深い弟が自暴自棄になってWWⅠの兵役につき、兵員輸送列車の窓ガラスを頭で割るシーンだ。幼くて、この映画の主題となっているカイン・コンプレックスなど知らない私だったが、悪である主役のジェームス・ディーンではなく、なぜ善である弟がこういう目に会うのか、という理不尽さだけを強く感じたのだった。

宮沢賢治の人生は、生前は決して恵まれ、喝采を浴びるようなものではなかった。善の人でありながら…。陽水は、この歌の中で、その善の人を揶揄しているわけではない。その善をハイデガー的に表現すれば、不特定多数の「ひと」にわかってもらえない故の悲哀を、「ひと」には「ワカンナイ」とあえてカタカナで表現しているように思うのである。

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