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ニーチェは、カントを危険人物だとしている。悪意に満ちた間違いを2つ犯したという。実際にはありもしない「真の世界」をでっちあげたことと、「世界の本質としての道徳」というわけのわからない考えをでっちあげたことだ、としている。この2つの間違った考えを上手く料理して哲学として完成させてしまい、なかなか反論しがたい仕組みをつくり、キリスト教に支配されていたドイツの学会が大喜びしたと批判している。
…この記述の背景を帰しておくと、『純粋理性批判』において、先天的認識形式を確立した。この認識形式は、対象をまず感性が感覚的質量として認識した後、悟性が経験によって形成されるカテゴリーから当てはめるというもので、経験できないことは認識できないという結論になった。これは、カントが大学で教えていた形而上学(実証できない=経験できない対象についての学問)の終了を意味した。そこで、カントは、道徳の問題は、経験を超えた物自体の世界にあり、道徳形而上学を『実践理性批判』で成立させるのである。(経験を基盤にした道徳は、功利主義的な善=幸福になってしまうからである。)
…ここで、ニーチェの言う「真の世界」というのは物自体の世界のことで、「世界の本質としての道徳」というのは、道徳法則(自分がこれから行おうとしている行為を、世界中の人が同時に行っても良いかどうかを考えて行為せよ。)を中心にした物自体の世界から導かれた実践理性による道徳である。ドイツ観念論は、この後フィヒテの絶対的自我、シェリングの絶対者、さらにヘーゲルの絶対精神へと繋がっていく。
ニーチェは、カントを神学者として成功したと揶揄している。道徳は我々が人生において作り出したもので、自分たちを守るもの、必要なものであるが、それ以外のものではなく「道徳を大切にしよう」という考えは百害あって一利なし。普遍的な道徳・義務・善など、幻想にすぎない。人間はそれぞれ自分の道徳を自分で発見していくのが自然であり、カントの高いところから見下した、抽象的、一般的、義務的な道徳は危険思想だと散々である。自分で勝手に考えて、勝手に確信したことを真理とみなし、カントは、実践理性などと名付けて科学にしてしまおうとした。まさに思い込みに過ぎない。
…「カント以前の哲学はカントに流れ、カント以後の哲学はカントから流れた」と言われるほどの大哲学者であるカントを、ニーチェは見事なまでにボロクソに言っている。実に興味深い記述であった。



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