https://www.aab-tv.co.jp/news/aabnews-24092917070079/ |
学園の野球部の方は、残念ながら準決勝で敗退した。とはいえ、強豪ひしめく兵庫県で、ベスト4は素晴らしい。
今夏に悔しい思いをした両校の健闘を改めて寿ぎたいと思う。
ESDとアフリカの開発経済学をライフワークにしている元大阪市立高校教諭のブログです。ケニア、南ア・ジンバブエ、ブルキナファソに足を運びました。58歳で、マレーシアの日本語学校に3年半勤務、その後四国最西端の三崎高校公営塾塾長となり、64歳で大阪に戻り、兵庫県の私立高校の2年間を経て、4月から大阪市の私立高校にお世話になっています。 メールアドレス:bfa.katabiranotsuji@gmail.com
https://buhitter.com/searc h?q=%E7%B5%B5%E3%8 2%92%E6%8F%8F%E3%81 %84%E3%81%A6%E3%81%BF% E3%81%9F&offset=2180&order |
先日、自民党総裁選が行われ、石破新総裁が生まれた。まあ、論議が全くできない人気だけのK氏、Wの件で嘘八百をつき推進し、多くの人命を奪ったK氏などが落選したことは良しとしたいが、普通、株式市場では、こういう時株価が上がるのだが、平均で2000円ほど下がったらしい。これは、石破が消費税を増税すると言っていたことが最大の要因だったらしく、この円安の状況下でわざわざ総選挙前に言うことではないだろうと、思う。先行きが思いやられる。
まあ、近々噂される総選挙は負けるだろうと思われる。と、いうより、他の総裁選候補でも極めて厳しいだろうと思う。今回の総裁選を見ていても、自民党の議員の質の低下が甚だしいように思う。派閥をなくすという流れの中で、自己の利益(政治献金やポスト)に汲々として、大局で日本の政治を見ているようには決して思えないのである。これは、小選挙区制のデメリット以外の何物でもないと私は思っている。
たしかに中選挙区制は金がかかり、それが金権政治批判を生んだが、少なくとも議員は派閥の中で勉強し、パラノに段階を踏んでポストを得ていった。それが、派閥がなくなり、党中央の采配で小選挙区の公認が取れるかが再選の鍵となる。よって、専制的な言論統制が常となり、何のために政治家になったのか、勉強しても無駄のような退廃したムードが党内にあるのではないか。そんな感想を持ったのである。
過去の自民党の歴史を振り返ると、総理となるような議員は、派閥の長であり議員団を束ねる力量と人望をそなえ、大蔵(財務)や外務大臣、内閣官房などの主要閣僚を経験していた。また党内で幹事長や政務会長を経験していた。よって、前述の人気だけのKを担いだ議員たちは何をもって推薦したのだろうか、と思ってしまう。
政治不信は良いことではない。だが、そうなる要因は、そこかしこにころがっている。
今回、学院の文化祭でも、いろいろと発見があった。1つ目は、美術部の展示のレベルが高かったこと。実に驚いた。学校長を始め、多くの先生方もこのことをよくご存知で、教えている3年生の意外な生徒が美術展で優秀賞や奨励賞を受けていた。たしかにすばらしい作品群であった。
2つ目は、吹奏楽部のレベルも無茶苦茶高いこと。最初に課題曲が演奏されたが、変調したり、テンポが変わったりとかなりの難曲であった。それを見事に演奏しきっていて驚いた。実に上手い。今秋、福島県で行われる全国大会に出場すると聞いたが、なるほどと思った。
3つ目は、学院というかミッション・スクールでしか見ることができないだろうと思うハンドベル部の演奏が実に良かったこと。音色はもちろん、仕草も美しく、実に上品であった。最初の”風の谷のナウシカ”のテーマ曲で特に素晴らしかった。
4つ目は、軽音楽部の野外ステージ、生徒も頑張っていたが、英数国の3名の先生のバンド「主要三教科」がメチャクチャ上手かったことである。最近の生徒の演る曲は知らない曲ばかりだが、このときばかりはブルーハーツをやってくれたので、実に嬉しかった。(笑)
個人情報保護のこともあり、体育大会に続いて躍動する生徒の画像は出せないので、私の今日の職員室の机上の様子(パンフや模擬店の戦利品などなど…下の方に焼きそばもちょっとだけ写っている。)を置かせてもらうことにした。
https://www.youtube.com/watch?v=EMsQGvesXZw |
衝撃を受けたのは、ヒズボラ構成員に対し位置情報を知られる恐れのあるスマホの使用を禁じて、その代用にポケベルを配布する方針をモサドが探知、そのポケベルになんらかの仕掛けをしていたようで、先日このポケベルが一斉に爆発、大量の死傷者がでたようだ。
これは恐ろしい。電池が爆発したのか、小型の爆弾が仕掛けられていたのか、不明だが、ハンガリーのペーパーカンパニーも台湾のライセンス供給会社の関係も判明しているが、実際の製造元は未だ不明。もちろん、イスラエルの仕業に間違いないが、毎度のことながら何ら声明をだしていない。
イスラエルは知立国家である。ハッキングなどオテノモノであるが、このポケベル戦術は、その一環であることは間違いない。とんでもない時代になった、とため息をつかざるを得ない。
ホートンの哲学は楽天的で普遍主義的だと言われるが、その理由は彼の人種概念が現代的であるからで、多くのこの時代の黒人哲学者が宗教的な立場から対抗したが、医学者である彼は、人種間の生理的・医学的差異が大きな意味を持っていないことを知っており、科学者の人種差別を直接批判の対象とした。1865年の「イギリス領内西アフリカの政治・経済ーいくつかの植民地の必要条件について」1868年の「西アフリカ諸国とその人々」でヨーロッパの一部の人類学者に反論を展開、西洋人優位の人種概念は何の根拠もないことを問題にしたのである。西洋の急速な発展は、完全に外的状況(=歴史的状況)の影響から生じた差異だと主張した。
文明化は、社会を強力にしていく。アフリカがやるべきことは、教育を強化し、キリスト教を布教し、産業を起こして、豊かになることであり、政治政策として促進すべきだと主張、彼自身、実際に金鉱山の開発に携わっている。
イギリス政府に、カナダやオーストラリアのように、西アフリカ植民地に自治を求め、アフリカ人による国家形成を唱えた最初の近代アフリカ政治思想家で、アフリカ民族主義の創始者の一人であり、「アフリカ政治思想の父」と呼ばれている。彼自身は西アフリカの可能性と発展を信じていたが、結局裏切られたのは歴史が示すとおりである。
…19世紀に、このような思想を展開し、また実践活動に勤しんでいたホートンは実に偉大であると私は思う。現リベリアとシオラレオネの実情は、その痕跡すら見いだせない。ある意味、残酷な話である。
https://web.sekaishi sosha.jp/posts/5764 |
彼は、イボ人(現ナイジェリアの民族)の両親のもと1832年デンマーク領西インド諸島のセント・トーマス島生まれ。オランダ改革派教会の牧師となったアメリカ人牧師のもとで神学を学んだ。才能を認められ、アメリカの大学で学ぶことを勧められたが、人種を理由に入学を拒否され、1850年リベリアへ移る。
首都モンロビアのアレキサンダー高校に入学、神学、古典、地理、数学、ヘブライ語を学び、その後1858年にその高校の校長になる。同年長老派の牧師として叙階された。また高校生時代から、リベリア・ヘラルド誌の特派員となり、1855年から56年にかけ、編集長にもなった。1861年、リベリア・カレッジのギリシア語とラテン語の教授となり、1880年から84年まで学長を務めた。
彼は、政治家でもあり、外交官でもあった1860年ごろから後のイギリス首相グラッドストンと文通をするようになり、1862年から64年はリベリアの国務長官に任命され、イギリス領・シオラレオネ内地代理人、駐英リベリア大使、さらに内務省長官に任命された。大統領選挙では敗北したが、その後も駐英・駐仏大使を歴任している。
また、シオラレオネは、植民地ではあったが、イギリスのリベリアと言って良いところで、ここでは1901年から6年にムスリム教育に携わる。アメリカに渡り、黒人教会でアフリカの現状について講演もしている。死去したのは、1912年、シオラレオネの首都・フリータウンであった。
彼は、「汎アフリカ主義の父」と呼ばれ、アフリカ人の独自性を初めて明確に主張した人物の1人で、後世に大きな影響を与えている。人種、黒人としての誇り、故郷であるアフリカへの愛がテーマで、人種差別に反対であり、黒人はアフリカに戻り、アフリカの発展に貢献することで人種差別の苦しみから開放されると信じていた。
したがって、アメリカで公民権を得ることを望んでいた人々からは批判された。同様の理由で、ユダヤ人のシオニズム運動を公に支持している。また、アフリカのキリスト教化は、神の深遠なる計画と信じ、エチオピア主義(18世紀後半から19世紀初頭にイギリス植民地出身のアフリカ人の政治的・宗教的体験から生まれたアフリカとアメリカ大陸を結ぶ思想的運動で、植民地化されなかったエチオピア、エジプト以来の歴史の中で宗教的にも大きな位置を占めたエチオピアを黒人の自治能力の証と見る。旧約聖書の詩篇68、31に、「王子達はエジプトからやってきて、エチオピアはやがて神に手を差し伸べる」とある。)と呼応していた。
彼は、キリスト教を信仰し続け、離れることはなかったが、一方で「キリスト教、イスラム教、黒人種」(1887年)では、イスラム教の意義を認めている。イスラム教のほうがよりアフリカ的であり、イスラム教を実践するほうが充実するだろうという考えを述べている。
…私が、ブライデンの伝記や思想を呼んで、最も感じ入ったのは、その経歴もさることながら、この最後の、イスラム教の意義を、カルヴァン派の牧師が認めているところである。おそらくは、19世紀という時代背景もあるだろう。彼は言う、「キリスト教圏のどこにいても、黒人の主な特徴は、よく言われるように従順さではなく、隷属性である。自立した黒人社会はどこにも存在しない。しかし一方で、自立し、生産的で、独立し、支配的である黒人イスラム教徒のコミュニティと国家が数多くあり、アラビアの容認や講演なしに、政治、文学、教会制度をを支えている。」この言をどう捉えるべきなのか、じっくり考えてみたい。
さて、昨日のブログで、世界価値観調査をもとにした教材で、伝統的価値観(宗教の相違)のみでは考察しがたい部分もあるので教材を考えたいと書いた。地理総合では歴史的背景から見る地理(時間軸から空間軸を見る)の内容が挿入されている。これを、ラテンアメリカとアフリカを対比させることでやってみることにした。ラテンアメリカへのスペイン人の征服による虐殺・病原菌による原住民の大量死は、アフリカの奴隷貿易と大きく関連している。(9月17日付ブログ参照)世界史で習う(大西洋の)三角貿易というやつだ。
上記画像(世界価値観調査)は、伝統的価値観が強いというグラフの下部だけを抜粋したものである。横軸の中央・0より左の-の数値は経済的にきびしい状況の国々で、右の+の数値は、経済的に余裕もあり様々な価値観をもてる国々という意味である。ラテンアメリカはおよそ右側に位置するが、アフリカは左である。すなわち、ラテンアメリカ諸国は、アフリカに比べ、ある程度裕福だと見て取れる。それはどういう理由によるのだろうか。
実は、極めて簡単な理由である。ラテンアメリカが独立を果たしていくウィーン条約の頃、支配階級(大地主・農園管理者・貿易商人ら)であった初期に移住してきた白人と、植民地生れの白人が独立運動を展開し、以後白人との混血をも交えてずっと支配層であり続け、後にアメリカのモンロー条約で守られながら、現地人や奴隷だったアフリカ系との経済格差を維持しつつ、今日を迎えているからである。(労働需要が大きい)砂糖などのプランテーションが発達しなかったアルゼンチンやウルグアイでは、白人移民を多く受け入れた経緯もあり、白人比率がかなり高く、白人の国だといってもいい。
それに対して、アフリカは、白人に搾取するだけされて、1960年代に独立を勝ち取ってからもなかなか飛翔できなかった。ちなみに、ラテンアメリカで意外に早く独立したハイチは、フランス革命後期時のジャコバン党などの後押しで生まれた黒人国家である。現状は実に厳しいが…。
この差は、私はアフリカ開発経済学の見地から、各政府(または植民地)の教育政策が大きく関わっていると思う。イギリスは、現地エリートの一部を留学させ、その後の傀儡・手駒に使うという戦略を取った。宗教団体が学校を作った例はあるが、一般現地人には、基本教育は施さない。フランスは、直接統治が基本なので、もっとえげつなく教育政策などないに等しい。ラテンアメリカでは白人の大地主が支配していたので、支配層に有利とはいえ、それなりの教育政策をとっただろうと思われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93% E9%96%8B%E7%99%BA%E6%8C%87%E6%95%B0 |
これは、ロックやヒューム、カントが言うような人種的な問題ではない。これまでのヨーロッパ諸国が搾取し、本来の社会構造を破壊してきた歴史(=構造的暴力)が理由である。
本日は、いよいよ西洋哲学史の要・カントの人種主義について考察することになる。実は、カントは人種を初めて理論化した哲学者である。カントは人種それ自体をア・プリオリ(=先天的)な概念として擁護し。道徳的配慮から非白人を排除することを危険な仕方で正当化していると、アフリカの哲学者たち(エゼやセラクバハン)は異議をとなえている。カントは、アフリカ人たちを長年苦しめてきた人種概念を整備したというわけだ。たしかに、カントの初期の見解はヒュームの受け売り的である。
カントの功績の一つに、コスモポリタニズムが明言された「永遠平和のために」があるが、この発表より後に書かれた「人種の性格について」にも、初期からの見解は変化していない。カントは、人種の性格を固定的に捉える人種主義者で、同じように固定的に捉えるが、他人種を差別的に見下しつつも教育や宗教的教化で同等になりえると考えるタイプのキリスト教聖職者と異なる。カントは、(アリストテレスの)「目的因」論的に説明した。すなわち、”家具になる目的を持つ木”というような概念である。人種の能力について、働ける能力はぼ全ての人種が持っているが、活動への意欲はインディアンと黒人の人種に欠けていると記している。わかりにくい記述だが、人種にこれを当てはめているということは、(活動への意欲を持ち)世界を支配する目的因を持った白人と、この目的因を持たない非白人という、人種的階層があることをを意味する。
「永久平和のために」の中でも、ヨーロッパの植民地主義の暴力性を批判しているが、根本的な批判ではない。カントのコスモモリタニズムは、ヨーロッパの中心部、最も文明的な国々の地政学であり、下層階級や非ヨーロッパ人、女性を排したブルジョワの公共圏を意味している。
「カントの沈黙」という表現をカント批判の哲学者・ラリモアが使っている。人種差別そのものについてカントは明確に批判していないことからくる言葉だが、ラリモアは「崇高な浪費ー人種の運命についてのカント」の中で、カントは人種の形成を自然史のプロセスの結果として、白人以外の人種は一掃されるだろうと考えていたと解釈できるとしている。この「カントの沈黙」(はっきりと差別的なことを公にしてはいなけれど、実は…)の理由は、こういった根底の差別感にあると著者は指摘している。
…カントの哲学は、私が高校時代の哲学独学時代、最初にふれたものである。ドイツらしい、いかにも哲学という感じで惹かれたのだが、このエントリーをまとめていくにあたって思い当たるのは、カントが長年教えていた形而上学(実証が不可能な学問の意)の限界を露呈したものだったということである。
…本日の冒頭に記した、著者の過激(?)な高校倫理教科書批判については、納得するところが大である。今、地理総合で、世界価値観調査の教材を使って、倫理的な地理を教えているのだが、どうしても先進国と途上国の格差を、文明面(その多くは伝統的な宗教的価値観)だけでは説明しきれない、と考えている。この内容を加味して教材をさらにつくろうと考えている次第。
https://mainichi.jp/articles/20240920/k00/00m/050/023000c |
さすがに投手との二刀流をしながら、50・50をまた成し遂げるのは厳しいと私も思う。打者専念の今年故の快挙だと思うが、それにしても凄い。キャンプから走塁を磨いていたのは知っていたが、まさに世界一の選手になるためのストイックな努力の賜物である。残り試合もポストシーズンもこの調子で頑張ってほしいものだ。
追記:21日には、52-52を達成した。高めのボールをまるで、ドカベンの岩鬼のように悪球打ちでセンターにHR。
4月から3年生全員と接してきて、かなり親密な関係を築いてきたので、たくさん写真も撮った。残念がら個人情報の関係もあって、ブログには掲載できないのだが、学院のHPには、この2つの演技の画像がすでに掲載されていた。
https://high.osaka-shinai.ed.jp/news/detail/215
役員の生徒もキビキビ動いていたし、保護者の皆さんも競技に参加したりと、これまで私が経験した学校の体育大会と比してもかなり良い体育大会だったと思う。もちろん、各学校で特色が違うので比較するほうがおかしいのだが…。
今日、何よりも感じたのは、先生方が生徒と親しいということである。中学と高校学年別の教員リレーなどもあって、黄色い声援が飛んでいた。(笑)昔々、女子が多いT商業の文化祭でティーチャーズをやったり、吹奏楽部の指揮を取ったりしたことを思い出した次第。(笑)
先生方、生徒諸君、お疲れ様でした。来週末は文化祭。実に楽しみである。
「白人以外の顔つきの文明的な国民はけっしていなかったし、活動や思索のいずれにおいても著名な個人さえいなかった。彼らの間には精巧な製造業は見られないし、芸術も学問もない。」「黒人奴隷はヨーロッパ中に追い散らされているが、彼らのなんらかの才能のきざしさえ発見されていない。」
ヒュームは、観念が二種類の仕方で結合することにより知識が成立するとした。その一つが自然的関係であり、もう一つは哲学的関係である。彼によれば、後者は高度な知識の源泉であるが、劣った人種はそれを持ち得ないとした。彼は、特に黒人に対し差別的で、黒人が受け身の心的能力しかなく、動物に近いことを示そうとした。
多くの哲学者や聖職者、詩人などから批判されたが、彼の人種主義は変更されることはなかった。哲学的に深刻なのは、ヒュームの考えは、社会的・政治的な悪条件が集団に与える影響を無視して、集団の性格の原因を一般化してしまう点である。ヒュームは黒人奴隷の共通の性格を、政治的立場を持たない奴隷としての市民的地位から説明しようとせず、人種的なステレオタイプから一般化することに終始した。これが明確な植民地主義の証であり、かなり影響力のあった哲学者がそれほど多くない言及とはいえ、黒人差別に固執したことは、その時代の植民地主義者・人種差別主義者にお墨付きを与えてしまったことは事実であろう。
…倫理の教科書では「懐疑論」でイギリス経験論を牽引し、カントに大きな影響を与えたヒュームであるのだが、ロック以上にイメージが悪くなった。そういう時代とはいえ、独善的で傲慢なスタンスである。日本人、いや東洋人の1人として、「白人以外の顔つきの文明的な国民はけっしていなかったし、活動や思索のいずれにおいても著名な個人さえいなかった。彼らの間には精巧な製造業は見られないし、芸術も学問もない。」と言い切る根拠はどこにあるのだろう、と思ってしまう。現在のような情報社会でなはい時代とはいえ、結局のところ「経験論による認識の限界」を見たような気がしたのであった。
ロックは、ホイッグ党員(ピューリタン革命後、世継ぎがいなかったチャールズ2世時代に、カトリック教徒である弟・後のジェームズ2世が即位することに反対した政党)であり、アメリカの多数制民主主義を否定するなど、民主主義を唱える思想家とは決して言えなかった。彼の収入の大部分は、植民地関係公務員と植民地への投資から成り立っており、そこには王立アフリカ貿易商人会社による奴隷取引も含まれていた。奴隷制を容認したカロライナ基本憲法を起草しており、アメリカ先住民に対する植民者の戦闘を肯定している。
ロックの経験論と立憲主義は、たまたま同時代人と同じく、単に黒人に差別意識を持っていただけのことなのか、否、ブラッケン・ヘンリー・マーティンが1976年の論文で、ロックの経験論には人種主義との内的な結びつき(タブラ・ラサには、普遍性が認められず、エリートによる人間の制御という発想を生み出す)があると指摘、多くの議論を呼んだ。
また統治二論の中で奴隷制を批判している。自然的自由、自然権の擁護者としてのロックと実生活での植民地主義の加担、アメリカ先住民への侵略の正当化については、如何。ロックは正義の戦争による戦争捕虜を奴隷化することを認めていたが、王立アフリカ会社での奴隷売買は正当化できない。アフリカやアメリカでの先住民の抵抗に対しては反撃を擁護しているのだが、著者の論では、「労働のみが所有権(私有財産)をもたらすというロックの所有権論からの当然の帰結であり、先住民の自然への働きかけは労働と見なさず、植民した白人の農地利用だけが労働の名に値する。よって、先住民の排除が正当化されうる。」としている。明らかなのは、ロックは、全人類を実質的に少しも公平に扱っていないわけである。
…イギリス経験論の中でも、タブラ・ラサ(白紙説)は、なかなかインパクトがあって面白いのだが、たしかに普遍性とは相容れない。また財産権(所有権)の論議で、著者の指摘は当たっていると思われる。こういう正当化がなければ、現在の構造的暴力の世界観は形成されないわけで、現在もその根底(無意識層)にこういう人種主義が根付いていると私は思う。
…我々日本人は、白人世界と黒人を始めとした被差別世界の中間的存在にあるゆえに、こういう矛盾や問題意識に気づくことが可能な気がする。3度のアフリカ行で、私はそんな経験をたくさんしてきた。
詳しくは、妙佛氏のYouTubeチャンネルに詳しい。このチャンネルはマレーシア時代から長く見ている。このブログを見ていただいている皆さんに是非見ていただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=QJnzFil3lXE&list=PLxB5-g4ngmZQil3D8ZNSZw9Uug6e90dJr
この事件、昔なら戦争になってもおかしくないような事件だと私は思う。中国は、人口圧で、儒家の本家でありながら仁も義もない。あるのは拝金主義、自己の利益のみである。格差も激しく、学校教育で反日教育を受け、多くの中国人は洗脳されている。先日の靖国神社の事件のように、自己中心的な言動・行動が跋扈している。日本語を理解できない中国本土の中国人の多くは、日本の共通善とは全く相容れない国民性を持っていると私は強く感じている。周恩来の生きていた頃は、まだ中国は貧しく、仁も義もあったようだが、今は礼、それも面子重視の格差社会になってしまっている。
今や中国経済は頓挫し、失業者が溢れ、治安の悪化が進んでいる。中国在住の日本人の安全は全く守られないだろう。日本企業は、撤退するのが賢明であるし、実際中国離れが加速している。中国は他国の技術を盗み、コピーするだけで、結局過当競争に煽られ淘汰されていくことを繰り返している。最近のEV車生産でも、国の補助金目当てに様々な企業が参入しすぎて、新しい技術の開発などせずダンピング競争を始め、ドイツのVWやヨーロッパ諸国のEV業界を巻き込んでいる。その動きは、全くまともではない。
日本の政治家もマスコミも、中国の工作活動で、金銭の授受やハニートラップで半中国的姿勢を一切取れていない。今回の事件は、結局精神的疾患を待った男による偶発的な事件とされてしまうだろう。中国共産党が、日本人学校はスパイ養成学校だとプロパガンダしている証拠がきっちりとあるのに、である。先日も超党派の訪中議員団が訪中したが、彼らこそ潔く政治家を辞すべきだ。自民党の総裁選も、この反日教育と反日プロパガンダを続ける中国への対応を争点にすべきである。マスメディアの支配層も猛省するか退陣すべきである。日本のマスコミは民主主義の第三勢力たる地位を完全に放棄している。
北海道だけでなく、多くの日本の土地が中国人に買われ、上海電力によるソーラー電気事業まで大阪維新は売り渡そうとしている。対中国政策は、現在の日本にとって最も重要課題だと私は考えている。
最後に、反日教育・反日プロパガンダを行う自己中の中国共産党と、日本の馬鹿な政治家や経済人、マスコミの犠牲となった、児童に心から御冥福を祈りたい。
https://fuushiga.com/cecil-rhodes/ |
18世紀には奴隷貿易を廃止する運動が強まり、デンマーク、イギリス、スウェーデン、フランス、オランダなどがこれを禁止していったが、一方で産業革命により、工業原材料の供給や市場として植民地を囲い込むことに関心が移る。ドイツのビスマルクが、ベルギーのコンゴ進出を機に提唱したアフリカ分割の会議には、14カ国が参加した。イギリス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン、トルコ(=オスマン帝国)の面々である。この会議では、現地のアフリカ人の意思は無視され、最初に占領した国が占有権を得、専有のための「実効支配」が行われていることが条件となった。
…まさにやりたい放題である。これらの背景には、アフリカ人に対する人種差別主義がある。次回はそれらについて記していこうと思う。
ポルトガルは、海岸部の交易で、金、胡椒、象牙、奴隷を得るのに安価なヨーロッパ製品と交換していたが、やがてオランダやイギリスとの競争に敗れていく。アメリカ大陸の奴隷需要が高まると、ヨーロッパの最大関心事は奴隷の供給に変わる。カリブ海諸島では、フランス・オランダ・イギリス・スペイン・デンマークが植民地を築き、ポルトガルはブラジルに入植型の植民地を築いた。いわゆる三角貿易でアフリカから奴隷が供給されていくのだが、アフリカ大陸において奴隷売買は、ヨーロッパの参入以前から存在しており、犯罪者や戦争捕虜が奴隷化されていた。外国へ売買されたのは主にアラブ諸国であった。しかしヨーロッパの参入は16世紀から急増し、18世紀には7433000人の奴隷売買が行われた。
西アフリカでは、強い部族が内陸に王国や帝国をつくり、弱小の部族を大西洋岸に追い落とす傾向があった。その弱小部族がヨーロッパ人に買収され、奴隷貿易に関わり、他部族との戦争や好戦的な部族に依頼したりした。18世紀には奴隷貿易に利害を持たない部族はほとんどなく、小さな集団は、西に移動しようが、東に移動しようが、奴隷狩りから身を守ることはできなかったのである。
午前中は、T大G高校の講座の準備をしていたので、午後からになったが、なんとかポスト構造主義まで終わった。ここから主には分析哲学について詳しくしておきたいのと、日本の思想で本居宣長や西田哲学についても詳しく記しておこうと思っている。これまでの倫理の授業の集大成のようなものになるような気がする。悪くない。
倫理ではなく、地理総合なのでできるだけ簡潔に重要なことを教えたい。仏教は上記の教材を中心に、教えたあと、やはり上座部仏教と大乗仏教の対比や、日本の仏教の基盤となっている「一切衆生悉有仏性」の説明(空・唯識・如来蔵の大乗仏教の哲学)は必要かなと思っている。
日本の重層的な価値観のPowerPoint教材については、古代の自然との共生、農耕社会における集団主義、中世の仏教の無常観、前述の天台の「一切衆生悉有仏性」から派生した鎌倉仏教、近世の朱子学などが主要テーマとなる。これと和辻の「間柄的存在」を対比するつもりである。本当は本居宣長なども入れたかったのだが、川端康成のノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」で締めくくるつもりである。(この画面にアニメーションで、どどーんと登場させる。)さてさて、生徒諸君の反応や如何に。https://tenki.jp/forecaster/s_ono/2024/09/13/30551.html#google_vignette |
学院は、来週に体育大会、さ来週は文化祭と行事が続く。生徒諸君の充実した行事のためにも、少しでも涼しくなって欲しいところである。ちなみに、体育大会は屋内実施なのでちょっと安心。
いくつか印象に残った内容について記しておきたい。
その1 セネガルの歴史家・民俗学者のディオプは、ヘーゲルが「歴史哲学」の中で、アフリカには歴史がないと断定し、エジプトはアフリカには属していないと根拠なく主張したことに由来する西洋中心主義に対して、厳しく批判した。アフリカ文化はサハラの南北という明確な分断はなく、全体的な連続性・共通性をもつという論を「黒人の国家と文化」で世に問うたこと。また、バナールは、「フラック・アテナ」という著作で、西洋中心主義の古代ギリシア観を覆している。紀元前1500年以前は、エジプトやフェニキアの植民地化の結果、エーゲ海よりアフリカ・アジア地域のほうが先進的あったこと、人種至上主義が歴史を修正したと強調した。
その2 旧約聖書のセム(エジプト人やエチオピア人)・ハム(アラブ人)が、人種として分類され、アフリカ人は呪われた人々(おそらくアブラハムの追い出された長男イシュマエルを指すと思われる)であるハムの子孫とされ、近代になるとハムは白人扱いとなり、またエジプト文明をギリシア文明より下位におきたい言説ではエジプト人は黒人とされた。西洋のご都合主義も甚だしい。ちなみに、ルワンダの(同じ民族でありながら)ツチとフツに分化された話も登場している。
その3 グレコローマン時代のキリスト教神学の歴史では、現チュニジアのカルタゴ出身のテルトゥリアヌスの項で、ローマの歴史家がカルタゴに関連したことを「アフリ」と形容したことから「アフリカ」の名称が発生したことが記されていた。
…なかなか目の鱗が取れるような内容であった。いかに私自身が西洋中心主義に毒されていたかがわかる内容であった。ヘーゲルはあまり好きではないのだが、さらに嫌いになったのであった。(笑)
序章で特に私の興味を引いたのは、「知の三点測量」という視点だ。アフリカ哲学を、西洋哲学、日本哲学等とともに視点に据え、相対化、共通化し世界哲学のプラットホームを構築したいという著者の視点である。
今、私は地理総合で、世界価値観調査をもとに各宗教の対比をやっているが、多くの視点から測量しつつその共通点や違いを明確にできればと思っているのだが、なかなか難しい。著者はそれを大きな理想としている。実に愉快ではないか。
さて、ベッケンバウアーであるが、昨日T大G高校で、90分間の特別授業を行った。実に楽しく、これからも全力でやっていこうと決意したことを付け加えておきたい。
https://japolandball.miraheze. org/wiki/%E3%83%88% E3%83%AB%E3%82%B3 |
そんな中、トルコは軍事産業がかなり伸びている。特にウクライナ戦争でトルコ製のドローンが比較的安価で性能もよく、大いに売れているようである。一方、トルコはアフリカ諸国にも影響力を増しているのだが、BRICSメンバーのUAEと様々な国で対立関係にあり、NATO加盟国であることもあって、BRICS加盟は微妙な話で、これからどうなるか静観していきたいところである。
アメリカも、イギリスも、フランスも、ドイツも、もちろんロシアも中国もそれぞれ大変な国内問題を抱えている。このような中で、トルコの存在感は増していくに違いない。
https://www.tokai-gyosei.ed.jp/life/facilities/ |
いいなあ、と値札を見たら22万円。当然購入する予定はないが、そんなに高いわけではないと思う。ただ、かなりの中古車であるだろうから、故障したら大変だろうな。
さて、井上尚弥選手ががまたまたTKOで昨日勝利した。YouTubeでハイライトを見たけれど、なんか物足りない試合ではあった。(ボクシング解体新書の予想通り。笑)大谷選手は、エンゼルスとの凱旋試合で三塁打も打ったが、最後は敬遠されてしまった。(次のベッツ選手が怒りの3ランを放った。笑)今の日本で、夢や希望となるのは、まさにこの2人。さらなる奮闘を期待したいものである。
https://gendai.media/articles/-/58340?page=1&imp=0 |
まず、その前提として、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三宗教の中で、大別すると、ユダヤ教は律269法を遵守することが重要であるし、イスラム教にもシャリーアの法体系があり、これをフィクフ(必ず遵守すべきものから、比較的守らなくとも良いものまで分かれている。)的に各人が解釈して守っていくという信仰の基本がある。この二宗教に対して、キリスト教は、イエスによって律法の成就が行われたので、律法・シャリーアといった守るべきものへの態度は、極めて希薄である。とはいえ、その伝統はあるが、コーシャやハラルのような食のタブーはないわけだ。これは違う視点から見ると、神の設計図の如きものがないともいえる。ローマ法の伝統もあって、キリスト教圏では「社会契約説」がホッブズやロック、ルソーなどによって提示されてきた。さて、では私が驚いたカテキズムについて記していこうと思う。
279 自然法とは何ですか A.自然法とは、創造主をかたどって造られた人間が神の英知と善性に参与する道です。自然法は人格の尊さを示し、人間の基本的な権利義務となります。
…この「自然法」とは、社会契約説の基本中の基本となる概念である。古くはプラトンやトマス・アキナスが説いているらしいのだが、倫理の教師としては、社会契約論が真っ先に想起されるのは当然である。この語がカテキズムに載っているということ自体驚きであったのだが、これは不勉強のなせる業。橋爪大二郎氏によれは、至極当然の話である。https://gendai.media/articles/-/58340?page=1&imp=0
番号が遡るが、さらにこんな記述もあった。
268 「共通善」とは何ですか 269 共通善の本質的要素は何ですか A.社会生活において個人並びに団体が、自らの完成をより豊かに、また、よりよすみやかに達成できる諸条件の総体を共通善といいます。その本質的要素は三つあります。すなわち、基本的人権の尊重と推進、社会の霊的・物的善の繁栄と向上、団体とそのメンバーの平和と安全です。
…古くはアリストテレスの「政治学」で解かれているが、なんといっても近年のマッキンタイアが重視する共通善という概念まで登場していた。しかも基本的人権云々とある。うーん、カトリック、恐るべし、である。さらに番号が遡るが徳についての記述。そもそもプラトンの四元徳的な内容なのだが、プラテン哲学は昔からキリスト教神学とは親しい間柄なので驚くには値しないのだが…。
246 賢明の徳とは何ですか A.賢明の徳とは、私たちの実践理性があらゆる場合に本当の善を識別するように導き、その善を実現させるために適切な手段を選ばせる徳です。
…さすがに、これはカントの「実勢理性」であるようだ。プラトンもアリストテレスもトマス・アクィナスも関係なさそうである。ちなみに、80 には、「我らとともにいます神」(インマヌエル=イエス・キリスト/マタイ1・23)という記述があった。カントの名前(イマヌエル)は、こういう意味があったのかと驚かされたのであった。
衝撃を受けた順に、番号を無視して記してみた。私にとっては、かなりの衝撃である。勉強不足を感じる次第。ほんと、(良い意味で)カトリック神学恐るべし、である。
37 最初の罪はアダムの子孫にも影響を及ぼしましたか。A.アダムとエバは、自分たちの最初の罪のために、原初の「聖性」と「義」とが取り上げられて傷ついた人間性を子孫に伝えました。原初の「聖性」と「義」とを喪失したことを「原罪」と言います。
…なるほど。これがカトリックによる原罪の定義であるわけだ。
46 イエスの神性と人間性は混じり合っているのですか。A.イエスにある神性と人間性は神の御子としての唯一のペルソナにおいて混じり合うことなく、一致しています。
…この前の45には、イエスは神と人間との唯一の仲介者であるとあり、その更に説明の部分。イエスの受肉の問題につての回答である。これはかなり難解な「不条理なるがゆえに我信ず」の世界としか言いようがないのだが…。
52 福音書に書かれている「イエスの兄弟」とは誰の事ですか。A.福音書に書かれている「イエスの兄弟」とは、イエスのごく近い身内のことで、これは旧約聖書ではよく使われている言い方です。
…マリアは、「手のはしため」として終生おとめであったということと、この福音書の記述についての疑問である。私も気になっていたことである。
65 イエスが亡くなり、霊魂とからだが分離したとき、それらはまだ神性とむすばれていましたか。A.イエスが墓に葬られていた間、死によってご霊魂とお体は分離していましたが、イエスの神的ペルソナはそれらと一致し続けていました。イエスのご遺体が腐敗を免れたのはこのためです。
69 イエスの復活は歴史的事実として論証できますか。A.できます。復活信仰は、よみがえられた主と実際に出会った弟子たちが歴史的事実として証している出来事に基づいているからです。しかしながら、人間イエスが復活して神の栄光を受けられたことは、人間の理解をこえる神秘的で超自然的な出来事でもあります。
…なるほど。カトリックや正教会をはじめとした神学の世界の歴史は極めて長く、様々な質問に対応できるだけの蓄積を備えていることが、よく理解できた。なかなか興味深いのだが、このブログ上で、全部の付箋の部分を網羅することはできないような気がする。…つづく。
https://www.spotvnews.jp/news/articleView.html?idxno=8847 |
…全く、水島漫画のような展開である。三者連続ホームランといえば、掛布・バース・岡田の阪神3・4・5番を想起するが、そう何度もある話ではない。いやあ、凄い。大谷選手はこれで44号。盗塁はなかったが、あと1ヶ月シーズンは残っている。43-43のMLB記録更新も凄いが、さらなる夢を与えてほしい。
ところで、日本は全くどうなっているのだろう。先週から台風10号が日本列島をざわつかせてきた。私は気象についてはあまり知識はないのだが、60年近く生きてきて、日本列島付近でこのような進路をとった台風は見たことがない。ネット上では、気象◯◯ではないかと話題になっている。先週は、警報が出て授業が減らないか、毎日気が気ではなかった。このストレスは大変なものである。しかも、ネット上のウエザーニュースとマスメディアの情報に差異が生じていたようで、ネット民からは陰謀的な”なにか”を感じたようだ。私も疑義を持っている。http://blog.goo.ne.jp/gyp-vision/e/52 415d4f7d36c385343f6a399df601f1 昔々、私がまだ中学生だった頃、春休みを利用して東京の親戚の家に遊びに行ったことがある。当時、私はクラシック音楽に凝っていたのだが、早稲...