2024年9月24日火曜日

エドワード・ブライデンの哲学

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「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第4章は、いよいよアフリカ人の哲学者列伝になっていく。まずは、19世紀を代表する、アメリカ系リベリア人(アメリカの元黒人奴隷自由人のために建国されたリベリアに、アメリカから渡ってきた現地人ではない人々:アメリコ・ライベレリアン)である、エドワード・ブライデンの話から始まる。

彼は、イボ人(現ナイジェリアの民族)の両親のもと1832年デンマーク領西インド諸島のセント・トーマス島生まれ。オランダ改革派教会の牧師となったアメリカ人牧師のもとで神学を学んだ。才能を認められ、アメリカの大学で学ぶことを勧められたが、人種を理由に入学を拒否され、1850年リベリアへ移る。

首都モンロビアのアレキサンダー高校に入学、神学、古典、地理、数学、ヘブライ語を学び、その後1858年にその高校の校長になる。同年長老派の牧師として叙階された。また高校生時代から、リベリア・ヘラルド誌の特派員となり、1855年から56年にかけ、編集長にもなった。1861年、リベリア・カレッジのギリシア語とラテン語の教授となり、1880年から84年まで学長を務めた。

彼は、政治家でもあり、外交官でもあった1860年ごろから後のイギリス首相グラッドストンと文通をするようになり、1862年から64年はリベリアの国務長官に任命され、イギリス領・シオラレオネ内地代理人、駐英リベリア大使、さらに内務省長官に任命された。大統領選挙では敗北したが、その後も駐英・駐仏大使を歴任している。

また、シオラレオネは、植民地ではあったが、イギリスのリベリアと言って良いところで、ここでは1901年から6年にムスリム教育に携わる。アメリカに渡り、黒人教会でアフリカの現状について講演もしている。死去したのは、1912年、シオラレオネの首都・フリータウンであった。

彼は、「汎アフリカ主義の父」と呼ばれ、アフリカ人の独自性を初めて明確に主張した人物の1人で、後世に大きな影響を与えている。人種、黒人としての誇り、故郷であるアフリカへの愛がテーマで、人種差別に反対であり、黒人はアフリカに戻り、アフリカの発展に貢献することで人種差別の苦しみから開放されると信じていた。

したがって、アメリカで公民権を得ることを望んでいた人々からは批判された。同様の理由で、ユダヤ人のシオニズム運動を公に支持している。また、アフリカのキリスト教化は、神の深遠なる計画と信じ、エチオピア主義(18世紀後半から19世紀初頭にイギリス植民地出身のアフリカ人の政治的・宗教的体験から生まれたアフリカとアメリカ大陸を結ぶ思想的運動で、植民地化されなかったエチオピア、エジプト以来の歴史の中で宗教的にも大きな位置を占めたエチオピアを黒人の自治能力の証と見る。旧約聖書の詩篇68、31に、「王子達はエジプトからやってきて、エチオピアはやがて神に手を差し伸べる」とある。)と呼応していた。

彼は、キリスト教を信仰し続け、離れることはなかったが、一方で「キリスト教、イスラム教、黒人種」(1887年)では、イスラム教の意義を認めている。イスラム教のほうがよりアフリカ的であり、イスラム教を実践するほうが充実するだろうという考えを述べている。

…私が、ブライデンの伝記や思想を呼んで、最も感じ入ったのは、その経歴もさることながら、この最後の、イスラム教の意義を、カルヴァン派の牧師が認めているところである。おそらくは、19世紀という時代背景もあるだろう。彼は言う、「キリスト教圏のどこにいても、黒人の主な特徴は、よく言われるように従順さではなく、隷属性である。自立した黒人社会はどこにも存在しない。しかし一方で、自立し、生産的で、独立し、支配的である黒人イスラム教徒のコミュニティと国家が数多くあり、アラビアの容認や講演なしに、政治、文学、教会制度をを支えている。」この言をどう捉えるべきなのか、じっくり考えてみたい。

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