2017年10月28日土曜日

「アラブの春」の正体を読むⅢ

ヨルダンの抗議デモ http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=IA77111
アラブの春に関連する国は、前にもエントリーしたが、チュニジア・エジプト・リビア、そしてシリアの4ヶ国であると思っていた。しかしながら、日本(欧米も含めたほうがいいようだ。)では報道されていない「春」があったようだ。あるいは不都合なこと故に報じられなかった「春」もあったという。今日は、それらの国の状況を要約していきたい。

バーレーンでも大規模なデモが起こり逮捕者は1000人を越えた。このデモの参加者は宗派に関係なく、人権を求め、民主主義や自由を求める演説中心のものだったようだ。しかし、報道はシーア派との宗教対立によるものであったし、その後サウジの戦車と1000人の軍、UAEの500人の警察が投入され鎮圧された。ちょうど東北大震災で原発の事故が世界の耳目を集めていた時で報道されなかったという。バーレーンは、王家のハリーファ家はスンニ派、国民の多数派はシーア派というねじれ現象の中、議院内閣制をとる立憲君主制である。元はペルシャの支配下にあった故にシーア派が多く、18世紀後半にカタールから今の王家がイギリスの後押しを受けて支配しているという構図である。湾岸諸国ながら、貧富の差が大きく、シーア派の経済格差への不満が強かったようだ。

イエメンでも、チュニジアの大統領が政権を追われたのを受けて、その4日後、大統領の退陣を求めたデモが起こった。イエメンは産油国ではなく貧しいが、サウジにとっては、国境を接する上に、シーア派の流れを汲むザイド派が北イエメンにおり、「フーシー派」と呼ばれる一派はイエメン政府とサウジ政府を挑発していたし、サウジも軍事行動でこれを鎮圧した経過もある国である。しかし、このデモは鎮圧できなかった。サーレハ大統領は、結局辞任することになる。アルカイダも加わり内戦状態の一歩手前にまでになる。北と南のイエメンの部族対立が再燃し、今のイエメンの悲劇的な状況になったというわけである。

オマーン。湾岸産油国では最も貧しい国である。オマーンの人々も生活水準の向上と、腐敗に対して不満を表明した。デモで2人の死者が出ているがほとんどメディアでは取り上げられなかった。大規模にならなかったのは、国王が迅速に動き、改革を約束したからで、実際2人の大臣のクビをすげ替えた。オマーンは、スンニー派から分離したイバード派が多数派で、残り1/4のスンニ-派との宗教対立がないのも幸いしたようだ。しかもサウジが資金援助して、不満を抑えるための施策をバックアップしたようだ。サウジとしては、オマーン領海のホルムズ海峡の安全を重視したからに他ならない。

サウジでもデモは起こった。国内に少数派のシーア派が約1割おり、かなりの差別的(就学や就職の機会が与えられていない)らしい。彼らの不満が各地で散発的なデモが起こったという。しかし、こうしたデモの報道は、アルジャジーラも含めてほとんど報道されなかった。

パレスチナ人が3/4を占めるヨルダン。チュニジアと同じ頃に物価が高く賃金が低いヨルダンでは、左派によるデモが起こった。王政にまで批判が高まったが故に中東のメディアは報道をしなかった。しかしヨルダンはタイのように国王が一定の尊敬を受けている。ハーシム王家はムハンマドの血統である。減税と軍人と公務員の最低賃金を$28アップ、内閣の総辞職で、この危機を乗り切った。

備忘録的に整理してみて思うのは、アラブの国々の構造がそれぞれ違うことと、オイルマネーを握るサウジやUAEのパワーである。もちろん、そこには欧米の思惑が見え隠れする。私は左派ではないし、リベラルだと自称する気もないのだが、アラブの春の本質とは何かと問いかければ問いかけるほど「構造的暴力」という開発経済学の概念が浮かんでくるのであった。

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