2013年2月7日木曜日

立花隆「天皇と東大」を読む Ⅱ

インフルエンザで平熱なのに自宅待機していた関係で、少し読書が進んだ。今日はその内容をエントリーしようと思う。立花隆の「天皇と東大」一巻から二巻前半にかけてである。

このあたりは、東大の文学部から経済学部が独立していく過程とオーバーラップしていく。最初は全く人気のなかった経済学だが、日本の経済発展とともに、浜口雄幸や幣原喜重郎などの人材が輩出されるのであるが、この経済学部、そもそもが日本の左翼の総本山としての性格をもっていく。関東大震災で経済統計研究室の書庫の多くを焼失するのだが、あかずの間という部屋があって、ここには大逆事件の資料が保存されていたのだと言う。この資料収集は吉野作造と高野岩三郎の希望に寄るものらしい。この頃の教授には第一高等学校校長も兼ねていた新渡戸稲造がいたりする。その一高で、徳富蘆花が大逆事件を受けて「謀叛論」を講演したりしている。この時、一高の学生であり、後に経済学部助教授になる森戸辰雄が「クロポトキンの社会思想の研究」を発表するのだが、その対応をめぐって話は進んでいく。

「戦前は『共産党宣言』など国禁の書で、翻訳することも読むことも持つことも許されていなかったと思っている人が多いかもしれないが、決してそうではない。社会主義、共産主義の弾圧の仕方には、時代に寄って微妙なちがいがあり、新聞紙条例(法)、出版条例(法)などの弾圧法規も何度も改正になっているので、許されることと許されないことの一線が時代によって少しずつ違う。重要な一線の引かれ方は、まず社会主義への言及が学術上の研究としてなされているのか、それとも現実的な政治主張・政治宣伝としてなされているのかというところにある。主張の最も大きな一線は、君主制(天皇制)の廃止を唱えているかどうかというところにあった。」(第2巻P16)

森戸論文は学問の自由、言論の自由が一応保たれていると考えられていた時代のものであった。

法学部の吉野作造などは天皇制とデモクラシーの調和を求めていた。また美濃部達吉も天皇機関説を主張できる時代でもあった。ここに法学部の右翼イデオローグで、憲法の最高権威となっていた上杉慎吉教授が立ちはだかるのである。この頃、憲法の第二講座というかたちで美濃部達吉の講座も開かれており、吉野・美濃部への敵愾心は強烈だった。彼は元老・山縣有朋と結び時代を右旋回させていくのである。

うーん。立花隆の文章は、これまで同様、念密な調査と引用が真骨頂である。無茶苦茶面白い話なのだが、こうして書くと、どうも硬い。(笑)本日はここまで。

ところで、久しぶりにクラスの生徒に囲まれて、今日は幸せだった。やはり担任はいい。

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